[0141]の最後に記した問題について。今年に入って論考のスタイルを少々変更し、とにかく実際の画像処理のための具体的な方式を得んがために、 ツリー図の内容をこれまでのそれとは若干別のニュアンスで記してきていた。F0201-1のMのための基本ツリー図(a-[b-c]をb-[a-c]と変容させる)を直接操作することを中断し、 もしのツリーにおいてaがcに変移するMが間違いないというのなら、そのままそのMを[a→c]として記述してもよいだろうと考えて論述してきた節がある。 第一、ツリー図などは今年に入ってから一度も描いていない。F0109-1は、①も②も直線的に単位が連なっているだけで、ツリーに特有な階層構図は持っていないのだ。

また、「第一の<光>は、第二の<光>に対立する<陰>に変移する」システムもしばらく封印し、 「第一の<光>を(分かりやすく)、そのまま第二の<光>に変移させる」方式を採ってきたのも事実である。 <ガラス球>は<口金の裏面>ではなく、第二の<光>である<ステム管>にj変化させてもよいのではないか、 いや、よいと決定したわけではないが、とりあえずその方式でやってみよう、と考えてきた。

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とはいうものの、[0141]末尾に記したように、オブジェクトをある主観によって構造化したツリーがあるとして、 それを下位から左右対蹠項の左項→右項をMとして処理し、最後に一つの単一体とするMなどがつまらないのは言うまでもない。 もっとも単純なa-[b-c]ツリーで言うなら、最初にb-cを処理し、次にa-[b+c]を処理するというのがそれである。これはむろんつまらない。

それに対して、ずっと考察してきたのが、a-[b-c]ツリーを持つオブジェクトを、b-[a-c]として(bを拠点として)解釈する見方もあるだろうから、 それをa→cなるMで表すことができるだろうというものだ。

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『部屋へ』1993-0131-0150

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同じ方法に拠れば3のbが4のaに達し、4もa-bの二重画像を形成することになるが、どうだろうか。4のa(3のb)はいきなり1のaに接近するという方法も考えていないわけではないが、これには何の根拠もない。 以前描いていた図では、4のbか何かが、図2.21のように1のどこかに達して終了するということだったがそれは結局、図2.22の(1)〜(4)のうちのどれかに近似してくるということである。 どれを選択するのか、またどの位置に帰るべきなのか。また2-11に書いたような方法もある。これも確証はないものの、上の(2)は1-bであるが、そこに接近すべきではないか。なぜなら1-bは途中で2-aに転落するため、最後まで捕かれない。だが、それを最後まで描いた結果として4-bがある、というのはどうだろうか。本来なら1-bと4-bは同じ画像なのだから2枚を合わせれば合致するはずなのであるが、1-bは途中で2に移行し、4-bもはじめは4の方である。したがって同じ絵であるところの2つが接近しつつ離れるというジレンマを表現するのに適してはいないか。

3から4、(あるいは2から3)にかけてのレベルの転換には、椅子が着地する床から天井へ向けての大きな部屋というフォルムの変容があってよいだろう。床を見ている視線が、天井を見上げる視線へと推移する変化にすぎないが。床や壁、天井のフォルムは図2.23のようむ部屋全体の回転移動の変化から割り出すことができるだろう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
もちろん、部屋を外部から観察するのではなく、部屋内部の視点の変化にすぎないから、画面上においては床や天井が無限に広がっていることになり、椅子部分と重なるように画面四方までこれを拡張してしまってよいものか、あるいはどこかで切断するのか、またグラデーションの方法でぼかしてごまかすのかという問題が残る。床、壁、天井上の全面に方眼ベースを貼るのなら、画面全体にその模様を拡張するのも面白いのではないか。部屋のテーマは、他の題材を扱うときにも重要であり、この部屋全体が大きくうねって不可思議なフォルムを形成する図は頻繁に登場することになるだろう。簡単に言えば部屋の中に存在することの不確かや不安を象徴するフォルムであり、かつての河原温の浴室に近い感覚に他ならぬ。部屋内部だけの視線の回転移動によって形成するフォルムはどうなるだろうか。いい加減に想像で描くと図2.24のようになりそうな気がするが、時間がモチーフの左から右に移行することの根拠は何も明らかではない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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超広角レンズを用いた室内写真と見ることもできるが、モチーフのどこからどこまでに時間が走るのかの定議によっていろいろなバリエーションが生じるに違いない。むろん最後には視点が天窓の飾りに接近するだろう。「モチーフの左から右」と書いたが、時間を画面上に左から右に拡張するのは自明のシステムである。モチーフにおいても「左→右」として処理したものが図2.24になるのか。

現在できる範囲の構成を考えてみる。3と4は無理に分けることもないだろうから同じにする。
1.2,3,それぞれ正時間と逆時間の二重画像を前もって用意する。3においてそれが必要かどうかの議論はあるものの、3だけ二重構造にしないことの理由はさらに何もない。何しかし1において背もたれという固有の言語性が2つの界域の急接近によって(それは一致することはないが)、生成するのと同じように、3においても同じ事態が起こり得るというところまでは想像できない。とくに部屋全体が二重になるのはやや不手際のような気もする。

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ともあれ、1は上図2.25のようになるしかないだろう。フォルムをごく単純化しているが、基本的には椅子を背もたれ主体に担え、下から上に樹木が成育するという時間のもとにそれを認識する。2については、まだはっきりしないものの、背もたれ+足→坐部という構造化がなされている。つまり、上下から中央に向かつて時間が流出する。3は、上から下(背もたれ→坐部→足)への時間がさらに部屋の左から右へと流れる。3における、a、bの二重性はこのように考えたらどうか。aの方は上から下へと椅子全体を捉え、さらにそれを否定して床へ移行するが、せいぜい足が接触する周辺付近にとどめておき、その先は闇の中に消失させてしまう。6の方で初めて壁や天窓を登場させるのである。つまり、bは1のaに帰るための存在だが、それが1に帰依する理由、必然性として壁、天窓を描写する、と考える。最期の救済とは、再び椅子を楽しいものとして回想しようとする希望であり言わば、部屋全体を椅子と見なしている。1は、下から上へと椅子を解釈した。3は逆に上から下へと椅子を解釈してみたが、床から壁、天井への推移は下から上へと向かっている。 もっともモチーフを床→壁→天井→天窓へと分割して時間が順に移行すると見るか、単に視線の移動が床→壁→天井へと推移していると見るのかで違ってくるが。ただ、これらを一度に全部処理するのは至難だろう。
1から2への転位は、何度も書くように、1の下から上に成育する樹木が2の上から下に降下する背もたれへ変容することによって行なわれ、坐部は1と2の両レベルに出現して二重構造になっている。背もたれが他の坐部や足にではなく、時間進行が逆になった同じ背もたれへと変容するところに本質的な価値を置いていたように思うが、これは他の坐部、足に変容してはいけないものなのだろうか。とはいうものの、2の足は3の足だけでなはなく、背もたれや坐部も合めた椅子全体へと変容する場面を想像している。具体的には足を3つのパーツに分け、各々を第3の背もたれ、坐部、足へと分化させることになるのだろうか。床も登場するが、床は、足とは別に新たに現出するモチーフとして描くことになるだろう。ともかく、決して第1の背もたれが第2の背もたれだけに変位しなければならないとは限らないとするなら、背もたれ→坐部、背もたれ→足、背もたれ→坐部裏の枠など、いろいろなパターンを生産できてしまうことになる。
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また当然各モチーフ内の時間進行のパターンもいくつかあるだろう。CGにおいて、ひとつのモチーフがまったく別のモチーフに変容するメタモルフォーゼは限りなくあるが、あまり奇想天外なメタモルフォーゼに対して慎重にならざるを得ない理由とは、大抵の場合それが決して本来的な奇想天外にはならないからである。キンリとコップの例を使うまでもなく、両オブジェクトを規定する上位構成素が共通項になっていない、というのが主な理由であったが、同じ意味で、椅子の中でも別のモチーフ同士がメタモルフォーゼを行なう事態については慎重であったということである。しかし、背もたれと坐部とをはじめは分類してはいるが、厳密には、その2つを確実に隔てることができないかもしれない。第一、椅子全体を一度に把握するときは、そうした各モチーフの分化は行なわれていないはずであり、背もたれと坐部にしても接触部を通してひとつのモチーフとしてつながっているという見方も当然できるはずである。背もたれは、もちろん、図2.26のような有機的な曲線状のフォルムを形成している。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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坐部全体の形も、実は図の的なフォルムであり、ここにもある共通性を看取することができないわけではない。AからB毘の変容とは、むろん、A・B間の共通性を獲得することであるが、一見、無関係のモチーフ同士でもその共通項を、比較的両者の上位を構成する要素の中に見出すことができれば、違うモチーフ同士の間でメタモルフォーゼを企画しでもよいのかもしれない。背もたれも、笑は、裏側から観察すると、表面が平坦であり、少し坐部裏側の表情にも似ているのである。 1レベルでは、どちらかといえば、椅子に対して背もたれの栄光をしか見ていない。2になると坐部裏側の沈欝さしか認識していない。よって第1から2への変容は、異質のモチーフ間で行なわれでもょうように思われる。いい加減な対比だが、@的フォルムを形成する背もたれは、そのひとつの特徴を残しながら坐部の裏側へと化すことはそれほど不自然ではないかもしれない。校の厚みと幅が増してくると左の穴が空いた坐部へとすぐに転ずるかもしれない。ここにも奇型が発生している。背もたれのすべての要素が坐部の要素と入れ代わってしまうのではなく、一部はずっと残したままであり、一部が互換されることによって奇型としての坐部が成立している。第1から3、4までのそれぞれのモチーフはすべてあらかじめ奇型として描かれるべきだと考えてきたが、その奇型も確実な根拠を懐胎しているべきである。その根拠は、前のレベルからの変容によって必然的に得られるものでなければならないのではないか。これまで想定していた各レベルの奇型は、前のレベルからのメタモルフォーゼの結果生じた質を持っていない。何と言うか、1は坐部、足を部分として持つ背もたれであるから、坐部や足は背もたれの一部の枝のフォルムを形成して小さくなっている。
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2は、特別イメージはしていない一一裏側(下側)から覗き込まなければならない坐部は一種の奇型といい得るのか。3は背もたれ、坐部が足の一部となっている(足の先端)ゆえに全体的には棒状の奇型となっている。
しかしこれらは、はじめからレベル単位の特異性を強調するために編集される形である。この奇型化と、先のメタモルフォーゼによって一部要素を互換した結果としての奇型とは異なるものであったか。第1の枝のように旋回する坐部や足は、坐部、足が背もたれに変容しようとして、部分的に要素互換を達成した状態だと考えることもできる。とすると、この前処理的奇型化と、メタモルフォーゼによる部分互換の奇型化とは大して本質的な運庭はないようにも思われる。

椅子をめぐる解釈は無限にあってよいだろう。そしてレベル1→3(4)まで完結させることばかり考えないで、(レベル1→2にとどまる画像もいろいろな解釈によって、何種類もの展開を考察すべきである。結局、根本にある方法はメタモルフォーゼであり、それ意外で、はないが、これを凡百なCGメタモルフォーゼと一線を劃す条件が何になるか。まず、扱う2つのモチーフのそれぞれが複数の要素によって組織されている点があり、ついでその2つのモチーフが実は椅子という同じモチーフなのである。ということは、同じ椅子なるモチーフ内の構成要素の解釈が異なっている。 広義に見ると2-15の末尾に書いたように、A-B-Cの構成素がどれを主題にしてどれを部分にするか、という相違でしかない。1→2への変化は図2.28であったが、これも背もたれ1→背もたれ2とするのと、背もたれ1→坐部2とするのとではかなり違ってきている。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
問題なのは、メタモルフォーゼが行なわれるのはひとつの要素でしかないということであり残った要素は、第1と2において二重となる。これがありふれたメタモルフォーゼと根本的に異なる点である。また第1だけのものと、第1→2と第2だけとの三重画像を持たせているところも特徴的である。 上に書いた背もたれ1→背もたれ2と背もたれ1→坐部2とがどのように違うのか。背もたれ1→背もたれ2(A1→A2)はたとえば図2.29のように図示しやすいが、A1→B2となると、どのように書いたらよいか少し難しい。函2.30のように書いても少しも面白味がないからである。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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それともA1はrA+BJ2に移行するとでも考えたらよいか。たとえば、背もたれ裏側は、かなり坐部の裏側に近い。背もたれが裏返しになるだけで構成素の一部を坐部裏側から得ているところがある。永遠に背もたれという名を冠していても、いくつかのその構成素を互換していくだけでかなり坐部裏側に接近できる。そしてもはや坐部裏側としてしか思われないような様相を呈しているとき、それでもなお背もたれと呼ばざるを得ない理由があるのか、また前頁の図解をどうしたらよいか。

とりあえず、背もたれ1→坐部2を図解してみる。いつも問題になるのが、第1の上に第2を置くのか、下なのか、あるいは左か、右かという点である。これまで何となく下においていたが積極的な理由はない。右に置くと第1の右←左はまた大きく右に沿れるので、変容領域が間延びする。これは一種の図解でもあるのだから見やすい位置ならどこでもよい、という考えと、決定的な位置があるかもしれないという憶測のはざまにあってなかなか決められない。2を1の少し右上にずらして置く方法もあるかもしれない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


図2.32は、AとBの統合図でありそれだけで、どこか背もたれなのか、坐部なのかよくわからない奇型性をもっていると思われる。これらは暖昧に統合化されるのではない。Aを構成する要素のいくつかを別々のものに(Bにある要素に)置き換えている。たとえば、下から延長し左右の先端部が接触しているのはAとCとの大きな違いだ。あと、に立与の線の幅が相当太くなっている。先端部が丸まりながら接触して一致する事態は、何か、決定的な背もたれからの上昇を意味するような気がする。うまく言えぬが、この違いについて、二、三の言葉ではなく、数+ページにわたるほどの分析を要するはずなのである。まず、背もたれ+坐部の折衷像には多くのバリエーションがある。そしてそのひとつひとつには長い分析を必要とする。本来ノートに書くべきはその部分なのである。

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図2.33は、また偶然発見した処理法だが、簡単にいえば第1レベルで左→右に閃として拡張された図が第2では芯と縦になっており、その位置が少し上にずれている、といういものでしかない。第1の以の右端領界で、背もたれの固有性、というのか、完結性をわずかに時示させることはすでに何度も書いている。左端にはそれがない。すると1-bも、右から左に移行するにしたがって時間が拡張され、背もたれの外観を喪失していくはずなのに、いつの間にか2-aの終着となっている。2の上端も坐部の完結性をほのめかしている。もっとも、1-bをもっと旋回させて2-aとするのなら、2をると上下するものの、図2.34のようにしてもよいだろう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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どうも完成図を具体的に想像しにくいが、1-aは下から上に延長する背もたれを描き、1-bもそこから始まるものの、途中から坐部裏側へと変貌し2-aとなる。2-bは坐部裏側として開始している一一これでとりあえず、第2レベルで、判断停止した画像はできるのではないか。1、2ともに完成図を明確にしておくなら1は、これまで書いた初発時に坐部と足を部分として(枝として)携える下から上に成育する背もたれとなるだろう。これに対し2は奇型としての坐部であり背もたれのフォルムを残しながら両先端が円環し、一致する性質を新しく有している。もちろん1も奇型である。少し前に1の部分として解釈される坐部や足も背もたれへの変容の結果だと書いた。つまり、坐部のフォルムが背もたれの幹のそれを帯びて上に成育しようとする。足は背もたれの枝である、ということだった。2も背もたれが坐部化したものだから奇型だが、ここには変容した要素しかない。1は正常の背もたれと異常の坐部と足とがあるが、2は異常の背もたれしかないので正常の足か何かを付加すべきということか。奇型としての椅子を描くことが、そもそもある要素の別々なる要素へ向けての変容であるとするなら、ひとつの奇型→別の奇型への変容は、変容そのものの変容ということになる。あまり釈然としないが、背もたれ1→坐部2をこれまでの方法論によって具現化すると図2.36のようにならざるを得ないのだろうか。1-bが2-aの坐部先端へと変化する。2-bも背もたれ的な性質を持った坐部が端から始まる。ここで、2における足を1-aの足に接続させてしまいたい誘惑に駆られるるが、1、2だけで物語を完結させるのなら、間違っているわけでもないのではない。

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要するに2つの椅子1と2がある。この2つに対して持つ解釈は全く異なっており1と2とを別々の時間において認識することは日常的な行為であるが、同じ時空の中でその1と2とを同時に獲得せんと試みるのである。1の背もたれが2の坐部となっている一一1の背もたれと2の坐部とが同一モチーフを共有しているという事態はあり得るだろう。最後に1の足と2の足とも共通し合っている事実が明らかになる。共有し合っているのは1の坐部と2の背もたれの2つだけであるー一この構図をやや複雑に、わかりにくくしているのが図2.34になるのだろうか。
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1と2の足とは同一モチーフを共有すると書いたが、問題なのは同じ足でも時闇の経過が逆になっている点であり、1の足の時間が終了する先端が2の足の開始時間の先端になっている。これでどうして逆にしなければならないかという理由の詳細はまた述べることができないものの、異なるレベルの連接部分の本質にかかわる重要?与件だとするなら、同じく共有する1背もたれと2坐部も時間経過を逆にしなければならないだろう。つまり1の背もたれの時間進行は2の坐部の逆時間進行となっていなければ面白くない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ どのレベルでもよいから、ひとつのレベル内のひとつのモチーフをいかなる時間性で解決するかをまた、新しい問題として定義することは意味がないかもしれない。1の背もたれは当初から下部から上部に向かつて樹木状に成育する一一幹に対する枝は、これも樹木状に幹の成育途中で成育を終了する一一等の時間化が決定的であったような趣があるが、なぜそのような解釈をしたか、といえばその解釈自体が1ー背もたれそのものを定義している、と言えないだろうか。同じ形態を持つモチーフも時間化が異なっていれば、全く別のモチーフとなるであろうことは既定の事実である。モチーフに対する特異な感情の質がその時間化を選ばせた、というより、時闇の特定の流れがその感情を生んだとしか言いようがない密接な関係を形成しているのである。2-24のところで、1背もたれが下から上へ延長するものの、先端は分化しているのに対し、2-坐部は先端が接触し、全体としては線が円環することに特徴を持ち、この1、2の僅かな差異は途方もない運庭を物語っていると示唆しながらこだわろうとしている。形態上は接触するかしないかの微妙な相異しかないのだが、全体の時闇の流れは全く異なっているという事態を対比的に論じているのかもしれぬ。つまり1は下から上に延びるのみだが、2は<註1>と丸く円環する構図になっているという意味において。1は左右の2つの対称な形が同時に進行するが2は円環しているがゆえにひとつなのか?すると、大ざっぱには、1→2への変容は図2.37の変化でなければならない?

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前にも書いたように背もたれの表側と裏側とは相当表情が異質であり、裏の切断されたような平坦な無表情さが坐部の幻想を呼んだと言ってもよい。背もたれを背もたれとしてみるときは、その全体の外観より部分的な幹や枝のフォルムに意識を集中させる。全体としてどのようなフォルムになっているかはあまり関心が払われず、内部で旋回する幹の運動により大きな興味を抱いている。 それに対し坐部や坐部裏側に対する反応は、やはりまず全体の形への興味であり、あまりに早く意識化する対象の全体像を把握してしまったことへの興醒めであり、未知なるものが既知へと転落するつまらなさである。背もたれの幹、枝の幅を変えて幹と幹の間に生じる間隙を狭くすることは簡単だ。だが問題はやはり意識が集中する対象のありようであり、間隙がなくなって無表情になった背もたれには細部の幹、枝への興味は失われ、全体の表情を感ずる蚤だろう。要するにその2つの背もたれに流れる時間の継起は明らかに異質であると見なければならない。1から2への変容は、したがって、図2.38のように、先端部を円環させたものではありはしない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 1が左右の対象形態が下から上に上昇する時間を措いているのなら(ただ、背もたれに対する特徴的な意識が細部への偏執にあるのなら、左右対象の形態が同時に進行するという時間が必ずしも正しいとは言えぬかもしれぬが)、それがいつの間にか一致して、時計回りか逆時計回りに回転する大きな円環運動へと変化していなければならないことになる。もっとも坐部への意識が全体フォルムに対するそれだったとしても、これも<註2>的でなければならないということにもなるまい。背もたれのように↑とか↓のように直線状に時間継起する場合もあり得るかもしれない、とするなら、背もたれが↑なので、坐部は↓として時間が流出する、とすべきか。また変容も1の終わりを完全に2の開始に一致させなければならないこともないのではないか。1が終わりつつあるところが2の終了位置でもある、というように、少しずらすやり方も考えられる。
背もたれ=A、坐部=B、足=cとすると第1レベルから第2レベルへの変容物語のバリエーシヨンは機械的にいろいろな要素間の変容を企図することによって次のように得られるかもしれない。

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下の、aが、最近考えていた1背もたれが2坐部へ転ずる物語であり、bが1背もたれが、そのまま時間が逆行する2の背もたれへと転ずる物語だとすると、結局、1から2へはA→AでもA→Bでもよいということになるから、2から帰ってくるのもC→Cだけではなく、C→A、C→Bなどもあり得るかもしれない。

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適当に列挙するだけで上に掲げたバリエーションが得られてしまう。最後の3つは、1Cから始まり、2のA、B、Cにそれぞれ移行するが、帰ってくるときは2のCではなくBやAから帰還が行なわれるとした方がよいだろう。 このようにシステマティックに記号と記号とを結んでいろいろな構造をつくったとき、今まで、想像もできなかった新しい物語が生まれるだろうか。Aが別のものへ転成する物語は、Aが背もたれであり、もともと希望を惹起する要素だけに見当をつけやすいが、Bから始まる構造の物語などはどうなるか。Bは坐部である。Aから始まりBへと達していたところのBは坐部の裏側であった。Bから始まる構造においては、そのBが希望でなければならないとするなら、B=坐部の裏側としなければならないのか。A→Aが希望的なAから絶望的なAへの転成であるなら、A、B、Cという3つの要素は、それぞれ希望的な側面と絶望的な側面との両面を持っているということになる。この違いは具体的にはモチーフをどのような順序で時開化するかによってあらわれる。これまで幾度となく、希望、絶望という言葉を使っているものの、これは結局主観的なイメージ判断にすぎない。 違いは、やはり時間の序列化の違いとしてあらわれなければならない。 忘れてはならないのは、少し前に考えていたように、単に時間的序列が異なるA→Aへの転成ではなく、第1レベルのAと第2レベルのAとでは、各レベルの中で、組織のされ方が異なっているという点である。つまり第1にてAは全体を指していたが第2のAは全体の部分でしかない、というふうに組織化が違っている。また、単に部分一全体だけではなく、(すベて部分一全体論によって解釈することもできる、と2ー15のところに書いているが)肯定される要素と対の関係にある否定される要素としての位置を占めるような存在Jという役をになう要素もあった。要するにAという要素を観察するとき、それが、他のB、Cとどのような関係性にあるか、が、問題である。そのAが「A-B-C」という全体のフォルムを持ち、文字どおり全体としか言いようがなく、残りの、BとCがAの部分としての存在を賦与されていない、という関係性にあると推測されたのが、これまで考えてきた第1レベルの世界であった。この関係は比較的わかりやすい。同じくA、CがBの部分であったりA、BがCの部分であったりする関係もあるだろうが、いずれも部分一全体論として、A、B、Cの関係性を論じている。

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では、この部分一全体論以外にA、B、C間を論ずる方法はあっただろうか、というのが当時の疑問であった。第2レベルとして登場する世界は、一見、A、Cを否定してBが成立する関係にあったが、これは単にA、Cを部分として持つBの全体ではなかったか、という反省もあった。したがって第1の「A、B、C」のAが第2の「A、B、C」のBに移行するとしても、第1のAが全体であるなら、第2の方では全体の中の部分でなければならない。このとき、第2のBが全体でなければならない、ということもないのではないか。すると第2の全体はCとなり移行する第2のBは全体の中の部分ということになってしまう。 それから、「A、B、C」のうち、どれかがその全体でありどれかが部分である、という関係性が決定されたとき、それをあらわすために完成図は奇型でならなければならなかった。Aの背もたれフォルムの部分としてB、Cが枝となって閉じフォルムの一部を形成する、という奇型は何度もくりかえし描いている。第1レベルのAであれ、B、Cであれ、そのどれかが第2のどれかへ変容するのだとしたら、最初のAか、B、Cは、全体でなければならないのかもしれない。 かつての1A→2Bへの変容は同じA同士の変容でありながら1Aは1の全体であり、2Aは2の部分である、という違いがあったから面白さがあったのだ。そうすると、1A→2Bは、AとBのモチーフの違いだけではなくAは1の全体でありBは2の部分であるとする違いも考えてしまうと、少し複雑になるのではないか。というより、Bが2の部分だとしても、1におけるBも1の部分であるため、逆に面白さが減じるのではないか。また、違う要素同士のメタモルフオーゼを果たしてやってよいのか、という疑問には絶えずつきまとわれている。一度も発表する以前から、こうした疑問一一あるいは規制のようなものを作業に課そうとするのは馬鹿化ているかもしれない。いや衆目に晒したところで、それをやっていけない、と自縛することには何の意味もないことかもしれぬ。現に異質のモチーフ間のメタモルフォーゼはCGの常套手段である。しかしたとえば、AからBのモチーフヘ変容を企画するとき、Aは完全にBそのものへと転ずることは不可能だろうという直感は動かすことができない。実際にはAを構成する諸要素とBを構成する諸要素のいくつかを互換して、ややB寄りのA(ややA寄りのB)といった中途半端なB、奇型としてのBをもって、変容されたAとする意外ないのだが、決して完全なBへと帰着することはあり得ない。たとえば、1-Aの背もたれが2-Bの坐部裏側へ変容するといっても、以前の背もたれの性質を残したまま坐部裏側へと到達するのである。転じた坐部裏側はむしろ、背もたれとも坐部裏側とも判別がつかないほどの奇型と化している。ここが重要なのである。だがな、的な処理だけでは決して全体像がわからないので、例の二重画像は全体像を少しでも認識することができるための計らいでもある。
今ふと,思ったのだが、1-A背もたれが2-B坐部裏側に達したときの奇型性一一どの要素を坐部裏側のものとして、どの要素を背もたれのそれとして残すか、には、必然性がなければならないし、その組み合わせで、も無限に近いパターンがあるだろう。仮にある必然性によって、奇型としての2-B坐部に達したとする(何となく坐部裏側というより背もたれ裏側と呼んでもいいような景観を想像している一一つまり全体のフォルムは背もたれそのままとして残すような)。そのとき、第2レベルとしての新しい背もたれが、奇型の坐部裏側を貫通していなければならないが、坐部裏側が奇型なので、それに応じた同じく奇型としての新たな背もたれでなければならないのではないか。その奇型性は、坐部裏側の特質に対して、これ以上他の奇型は考えられないと思われるだけの特質がなければならないのではないか一一つまり、第2坐部裏側の奇型にもいろいろあり、その中の2つをB'とB"とするなら、B'に接続する背もたれは、奇型であってもA'でなければならず、B"に接続する背もたれはきちんとA"でなければならないのではないか。CもC'やC"でなければならないのではないか。

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すると、仮に第2レベルから第3レベルへと移行するにしてももともとA、B、Cとも奇型となっている第2から始まるのだから第3もさらなる奇型でなければならない。というか、第2のA、B、Cのどれかからまた第3のA、B、Cのどれかへ変容するときに、再び、完全な第3のどれかへ達することができないのだから、ここでもまた奇型が生ずる。奇型のモチーフがさらなる奇型へと化すのである。すると第3全体世界もまた二重の奇型でなければならないーーというわけで、世界が変転するごとに奇型度が深化し、複雑化していく。あるいは、どこかで、奇型の奇型化が逆接的に正常さを生むのかもしれず、それが最初に戻るきっかけとなるのかもしれない。 ある種の複雑さを画面内に導入する必要性は以前から感じていた。フラクタル画像の面白さは、同じシステムを際限なく細部に適用することによって画像全体が複雑化していく。システム自体は不変であり、変貌するのは画像の方である。2、3度くりかえしをしただけでは意味がない。それは無限のくりかえしによって奇怪な相貌を次第にあらわにしていくものの、もちろん無限回のくりかえしは不可能であるから、途中で中断することになり、人は完成された絵を見ないままにそれを想像する以外ない。ここにもひとつの新しさがあるような気がする。つまり画面上に現出した絵は指示するのみであり、決して完成された作品そのものを意味しているのではない、ということ。途中で運動を停止して、残りを指示するだけ、というもどかしさは必要かもしれない。 前頁に書いたことを具体的に論ずるといかなる奇型が生ずるか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

第1Aの背もたれが第2Bの坐部裏側に転ずるとき、背もたれの全体を形成する独特のフォルムは残しながら、部分に偏執して旋回する意識の運動は切り捨てられ、のっペりと無表状な平坦さが特徴的な表情を獲得して坐部裏側になる、ということだった。ここは是非細かく分析しなければならないところだが、あえて単純化して、上図にまとめると、1-Aは円環せず、螺旋状のフォルムであり、それが2-Bの円環しなおかつ螺旋的フォルムのままのモチーフへと変化?するとなる。このとき、では2のAはどう処理したらよいか。そもそも、BはAに対して成立しているものであり、BとAの明確な相違は、言語化させておかなくてはならない。1のAに対するBはAから隔てられるところの明確な要因があるものの、これが暖昧になる状態で1-Aが2-Bに達しているので、むろん1におけるA-Bの相違と全く同じ相違を2に適用するわけにはいかない。上図に描いた2-Aは、単に「非円環でありしかも螺旋的ではない」ものとしてのAである。
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しかしこんな単純な処理でよかったのだろうか。これを複雑化と見ることができるのだろうか。
単に要素を組み変えただけで複雑化はしていないのではないか。たとえば1において、Bのフォルムに対してAは螺旋敵で優雅である。では2のBに対しでも同じ関係を持たせるのなら、2-Bに対して2-Aはもっと螺旋的で優雅でなければならない、ということになりはしないか。図3.2の□と○とを隔てる要素があるとき、□に対して何らかの要素によって○が成立している。では同じ理由によって○がしりぞけられたときに成立する新しい形態なるものは何か一一この設問の立て方は全く無意味だろうか。つまり謎の新しい形態にはただ□が置かれるだけなのか、という問題である。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
Aという人間とBという人間がいて、AをBはある理由によって嫌っているとする。そのとき、Bが同じ理由によってCによって嫌われる、ことがあるのか一一この比輸は適切であろうか。AにはBにない性質があり、それが理由でBがAを嫌っているとする。BがCに嫌われるとしても、Aにはあった性質をBは持っていないので、同じ理由によってはBは嫌われようがないのではないか、と考えるのが常識である。すなわち、Bが嫌われるとすれば、同じ理由なら、Aによってでしかない。しかしその性質も、ひとつ棚上げされた(?)新たな性質となったとき、Aも持ち得ることになるのではないか? ○に対する<註3>的な関係を<註3>に対しても応用してさらにぐにゃぐにゃの<註4>のようなフォルムをつくることができないわけではないが、これではあまりに意味がない。これも以前書いたことがあるはずだが1において、青と緑との関係が寒色素一暖色素であるとしたとき、2の緑を同じ理由によって否定する赤を想像することはできる。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
この関係性だけを見ると、1の「寒色一暖色」と2の「寒色ー暖色」は、言葉の上では同じながら1の狭い領域でのそれを大きく抱括するような形で2の概念が成立しているようであり、またなおかつ、1の「青一緑」と2の「緑一赤」とはもっと別の概念によって成立しているようでもあり、理想的であるように思われる。しかし、問題はこれ以上進まない点であり3レベルにあって、赤はどんな色によって寒色系として否定されるのだろう。赤にもいろいろあり、ピンク系の赤によって一般的な赤が否定される、ことはあるかもしれないが。これが3→4→5と続いて、また最初の青に戻る、という形がよいのかもしれない。もっとも色の例は、「青一緑」を包括した色を否定して赤が登場するようだったから、少し今扱っているテーマとは違ってくるかもしれない。

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前頁に書いた問題の結論は出ないので、当分3-5の冒頭に書いた図のように処理するしか仕方ないだろう。1において、B、CはAの部分であり、Aの成育途中に小さく登場し、枝としてのフォルムを形成して消失する、となっていた。2のBが全体でありA、Cが部分である構造をどう時開化すればよかったか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
以前考えていたのは、A、Cから時間が流れ、それが終了したときにBが登場し、Bの時間が始まっておわる、という時間化であったが、その根拠は脆弱である。A、CがBの部分だからといっても、1のようにBの時間の中にA、Cを取り入れるのは困難なのではないか。また広義にはA、CはBの部分であるという関係が成り立っかもしれないが、かつて考えていたのは、A、Cを否定してBが成立する一一反A、C的な存在としてBが存立するという関係の方が正しくその構造を説明しているようにも思われていた。第2レベルの世界とは、坐部裏側に背もたれ先端が貫通していたり、木枠が接触して、本来持っているはずの坐部の広がりを拒絶せんとしているもどかしさに特質を持つ。これが坐部表側だと人はもちろん坐ることができない。坐部の裏側だけで、寂しいのだが、それにさらに拍車をかけているのが、背もたれ先端や、足先端、それに木枠の存在である。要するに、内側から広がっていくはずの視線の動きを、それらによって邪魔され、遮断される。木枠が構成する四角形の垣根は、牢獄の塀を思わせないとともないが、それにしては中途半端である。一一つまりこのような固有の風景があるとしたとき、それをどのように時間解釈するかは、この2に限らず、あらゆるレベルに登場する複数の要素が組織された風景に対して行なわれるべき認識だろう。 それがいくつかの複数のモチーフに分類されるなら、どの順番で推移するかは、必ずまず決めなければならない問題ではなかったか。よくわからないが、ここは以前通りA、Cの終了後にBが始まるという時間意外他にないのではないか。またBはり的に坐部酬を円とみなした時間とする。
ところで、Bのフォルムは前頁に書いたように、1-Aのフォルムを残している奇型であり、2-Aもそれに対応した奇型であったが、2-Cはどうなるのか。2のA、Bが奇型であるとき、それに応じた2ーCの奇型性があり得るのか。 2-Bの奇型性は、Aとの関係において生じたものであり、このA-B闇の要素組み換えによる奇型化にはCの存在は介入する余地がないようにも思われる。

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しかしBとCにはあらかじめ固有の関係があると思われる。1においてはA-B+Cの関係性ばかりが主題化されていたので、BとC間をどのように説明したらよいかわからないが、何かの拍子にBが少し別のものに変化したら、過去のB-C関係をそのまま保とうとしたら、Cも変わらざるを得ないのではないか。図3.4のBとしての○が何らかの事情で<註5>となったら、Cとしての<註6>が<註7>と変化するように。

またしても原理的な問いかけになるが、椅子は一見、A、B、Cの三要素に分類されるように見える。しかしこの3つはそれほど明確な区別を持つものではない、ということを証明するために作業は行なわれる、と考えてもよいかもしれない。背もたれを坐部に変化させるのは、よほど慎重に行わなければならない。できることなら、背もたれを坐部に変容させる安直なメタモルフォーシスは避けたいという気がある。しかし、背もたれと坐部は当初こそ明確に区分されていると思われていたが、背もたれの裏側に回ってみると、絶望に陥るような外観を呈しており、ほとんど坐部裏側としか感じられないようなたたずまいである。ここに背もたれと坐部との境界が暖昧になっていく契機がある。 たとえば、これは足ではないが、もし坐部が図3.5のような曲線的なフォルムを描いた奇型に帰着したとしたら、それは接続する裏側の木枠を正常な形で登場させるのではなく、坐部の形に沿ったぐにやりとした形で描かなければならない、と考えるのはそれほど奇異で、はないのではないか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ただし、足の方はどうなるだろうか。 今のは、前頁冒頭に書いた図を踏襲した例である。しかし、その図では、CとBとの関係が、Cが1の直線状でありBがOの円環(曲線)状であるという差異として明確であり、この関係をBがいかなる形であろうと推持しようと考えれば、Bの○が<註6>となったとしても、Cの<註7>は<註8>となることは自然だろう。
つまりC-Bの間に「○-<註9>」的な関係、差異は察知されてはならず、そこは依然として「○-<註10>」でなければならないからである。ところが、精子を題材に取ると、第2レベルにおけるCとBの関係のうち、第一に据えられているのは、そうした形態上の差巽であろうか。いや形態には違いないがICが突き刺し、Bが突き刺されるJといった解釈によってようやく定義できるような関係であり、これだけならBがどんな形になろうと、Cのフォルムはそのままで推持される関係になってしまうのではないか。

ひとつには、第2レベルのC-B(A-B)関係の実態がはっきりしていないのも混迷の原因に挙げられよう。3-7に書いたように、第2レベルの世界の特徴はといえば、坐部に腰を下ろしてゆっくりと安息するという予測が裏切られた寂しさであり、荒家たる環境に精神を引き裂かれるもどかしさである。何をもって荒夢とするのか。ただ坐部の裏側だけではその感情を醸したりはしまい。坐部裏側は表側と違い、わずかな表面の起伏がなく、均一に平坦であるが、やはりそこに枠やら足などの爽雑物が介入してくるからであろう。第一、坐部の裏側には腰を下ろすことができない。とれはどういう関係なのだろうか。

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問題なのは、そのようにCとBが構成する特殊な関係性をいろいろな視点から分析し言語化するのはょいとしても、それを処理する段になって、大して変わった処理法を期待できるのでもない、という点だろう。í処理Jとは、結局、どのような時間がC-Bにおいて継起するかを定義することに他ならぬが、これのバリエーション自体がさして多くなく、どれだけ考えてもせいぜい数種類に落ち着いてしまう。
単にA、Cの時間経過を見届けてからBに移行するだけだったら、特別「刺す一刺されるJなどという言説を弄することもあるまい。A+CとBとを区別しているという差異しかそこにはないからである。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
もっとも、A、Cが終了してからBが始まるという時間系列に深い意義があるわけではなく、逆にBが終わってから、A、Cがはじまる、と考えた方のが、これも単にB-A+Cの区別だけを説明したにすぎないにせよ、あるいは「刺す一刺される」的関係を雄弁に語り得る、と考えられるかもしれない。もし、第2において、いささかの荒参さも感じず、出っぱった枠や足は坐部の装飾物程度の認識しかなかったとしたら、AとCはBの完全な部分となるだろう。おそらくそのときは、第1において行なったように、Bの旋回途中で、AやCが登場して消失するという程度の扱いしか、A、Cは受けないだろう。すべてはBの中に丸く収まってしまうのである。だがそうではなく、A、Cの存在によってBの広がり、希望、安逸その他の要素をことごとく否定されるのなら、むしろ最後にA、Cを持ってくる方が妥当なのではないか、という推測も成り立つ。 もう一度、先の「Bの奇型性をCはいかに伝授すべきか」の問いに戻ると、また別の角度から考察するなら、もともと、椅子はA、B、Cの3つの構成物によって成り立っておりそのうちのAとBとの差異が曖昧になりながら、なおかつ、一次元上昇、下降した地点でまだ差異を推持していると考えるとき、たとえば、図3.8のようになってもよいのではないか。BのムがA化するが最後までなりきれずに終わる。2におけるBに対するAはOとなっている。すると2のCはDになると考えたらおかしいだろうか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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2では、Oとムと口の差異がある部分においてなくなっているものの、それでも別の部分においては依然として差異を持続させているように思われる。果して第1→第2→第3の推移は、そのように一見徐々に三要素の逕庭が消滅していくプロセスでよかったのだろうか。もう少し第2以降の各要素間の逕庭を際立たせるようなありようがあり得るのではないか一一つまり第2の明らかな要素間の相違は第1にはあまり認識できなかったが第2にあっては非常に露出している、というような。

第2レベルの粛条たる情況は、やはりBとA、Cとの位置関係によって決定されていると言えるだろう。しかし、フォルムの違いもそれに大きく関与しているのも確かなのではないか。単純化すると、平坦で広がっていく坐部の形態に対して直立する足のフォルムという違いは前者を疎外する後者の佐賀の大きな要因であるとも思われる。坐部のアウトラインがぐにゃぐにゃになったとき、足は何の変化も見せなくてもよいのか。一一ここは保留にしておかねばしょうがないかもしれない。 ところで、これまで、第1から第2へ移行するときに例の二重画像手法を用いていたが、これを図3.9のようにしたらどうか。つまり、簡潔に1と2は左右にならべてしまう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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1の下から上に向かつて時間が流れるのなら1の最後は上端で終了するが、同じ場所の下から第1を反復するものの、それが第2へと推移する。図の点線部分によってモチーフの固有性は保持できるだろう。問題は、これだけでは2の方の固有性がなくなってしまうので、さらなる処理を加えなければならない。1が<註20>であり、2が<註21>であるとして、1から2に向かったところのモチーフが2の<註22>へ推移すると、図3.10のようになってこれは真ん中をはさんでシンメトリーの構図になってしまう。もっとも1と2とでは、全く情況や視点の位置などが変化しているので、決してシンメトリー的にはならないとは思うが。いささか左から右にだらだら延長していくだけの感じがあり、それが気にならないでもない。第1、2、3と連続させたら相当横に長い画面を要するととになるだろう。また、あまり横にのばすと、円環がやりにくくなる。第2の足は第1の足に結びつくはずであったが、これでは足がかなり延びるのではないか。
また、これは新しいアイデアだが、いっそのこと、二重画像をやめてしまう方法もある(図3.11)。背もたれが下から延長するのなら、先端(上端)からさらに連続して、また背もたれが天に帰っていく、という構造である。このように二重に画像を重ねて、そこに原形を想像させるより、完全に先端同士をつないでしまった方のがわかりやすいだろう。わかりやすい、とは、人が画面を見て抱く奇異なる衝撃一体これは何なのか、どこからどこまでが背もたれで、どこからが坐部裏側になるのかを仔細に分析しでも判然としないもどかしさ、不安の感情をより直裁的に喚起しやすい、ということである。1本の線だけだと、二重になるべき2つの接続部分はなだらかに連続する必要があるから図3.11のようになるだろうか。
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ここで注意することは左の螺旋状のフォルムを題材にとればわかるように、2つの世界は左右対称であり、反転した画像を新しく用意しなくてはならないだろうという点である。図3.12の場合は最後の先端部が→で終わっているので、右に対称図形を用意しているが、↑で終了する絵に対しては上下対象の図形を持ってこなければならない。←で終わる場合は左に対称図形を持ってくるのか、などと問題は多い。
以前から抱えている問題だが、異質の物体闇のメタモルフォーゼを行うことは決定的な誤謬を犯すことである、という実感をなかなか払拭できない。背もたれから坐部へのそれは、むろん異モチーフ間のメタモルフォーゼである。以前考えていた背もたれ→逆背もたれの発想、もその牽制から得ているのである。あまり大した違いではないかもしれないが、第1の背もたれが、視線が裏側に回ることにより裏面を見せ始めたとき、必然的に坐部裏側へ到達する理由をそこに得られるのではないか。つまり背もたれ表側だけを見ている限り完全に希望を灰めかす要素しかなく、坐部裏側などの景観とは一線を劃っているが、背もたれ裏側は、ほとんど坐部裏側の表情と変わらず、要するに背もたれ裏と坐部裏とは連続している、というより同ーの新しいモチーフなのである。一一このように考えれば、背もたれから坐部裏に移行する契機、を得られないのではないか。いや、このことについては3-8に述べている。であれば、処理もこの発想に基いてやるべきではなかろうか。具体的には、「背もたれ表→坐部裏」ではなく、「背もたれ表→背もたれ裏+坐部裏」というメタモルフォーゼを敢行する。もちろん第1の背もたれ表と第2の背もたれ裏とは時間の継起が全く違っているので、たとえ同じ背もたれ同士であっても、内部時間の異なるモチーフ闇の処理となるのは仕方ない。ーーしかし図3.13のように、「新しいモチーフ」としか名付けられないような椅子に対する認識は以後、ずっと必要であろう。そして図のというようなある側面においては重複しているという繕造、ある領域を共通性にして、全く別々の方向に黍離していく構造はきわめて重要に違いない。「詩」や「夢」がいささかも非合理的で、なく、必ずある理由によって別次元の界域を呼ぶ事情と通底するだろう。

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これは第1から第2までの物語であったが、それから先はどうだったか。視線が坐部裏側に達して絶望する。坐部裏側には枠や足などが接続しており、これらは坐部裏側に必要条件である。つまり坐部裏側という呼称で定義してはいるものの、実際は裏にくつついている足や枠や背もたれ先端などの存在がなければ、考えているような粛条たる情景は実現しないのである。したがってこれ,も前頁に書いた新しい概念でなければ定義できない対象なのに違いない。坐部が持つはずの広がりを枠や足で疎外することによってあの情景が成立することについてはこれまで綾鰻述懐してきた通りである。まだ足の独立性はこの第2では発揮していない。第3の主題が足である。足は、椅子本体と床とを連繋する中途半端な存在だ。足がなければ椅子は成立しないにもかかわらず、常に蔭に追いやられて日の目を見ない存在である。つまり第3にて主張する足とは接触する床がなければ成立しないものとしての存在である。足そのものに光は当てられず、むしろどこに消失するとも釈然としない床の方に光が入射している。足は椅子本体と床とを連繋する蝶番(ちょうつがい)としての任を演ずるのか、あるいは足の間からもっと別の地平を獲得しようとする意志のための窓のような任を果たすのか、一一いずれにせよ、ここには床の存在を欠くととはできない。 最後の第4レベルは何だったか。ここは、第3とは逆に下から上に意識が上昇し、もう一度椅子そのものが持っていた栄光を獲得しようとするところがあった。どこかに消失する床ではなく、先端に壁、天井、天窓を持つ床である。いずれにせよ、ここにおいても床は床だけで存立しているのではなく、他の部屋の構成物と不可分の関係にある。ここで一気に天窓の唐草模様が背もたれのフォルムと通底する最後の円環に達する。 ととろでそのように考えると第1から4まですべてのモチーフを言わば奇型的に解釈している。単独でその存在を認識することはない。1の背もたれにしても、坐部、足を部分として携える背もたれであり、これも坐部、足の存在なくして存立できないだろう。 背もたれ1から背もたれ(裏)2+坐部裏2に変化するときに、少し問題になることがある。背もたれは、左右対称の唐草模様によってできている。左右の2つのフォルムを別々に処理することはあまり意味がないので、同時に時間進行させることを考えていたが、これが、一見ひとつの存在でしかない坐部裏へ転ずるときに、背もたれの左右の2つが一致して(ひとつの存在になって)移行させればよいのか、それとも、必然的に背もたれの左右対称性を受け継いで、坐部も2つになってしまうのかという問題だ。

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これは、第2の坐部は、1の背もたれの一部の性質を受け継いで奇型になるのだから、坐部が2つになってシンメトリーの構図を形造っているという奇型に化しでも必ずしも間違ってはいないだろう。つまり、背もたれのgという全体のフォルムだけは維持して、第2に継続する、という発想、による奇型と全く同じ意味による奇型だろう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しかしこのような奇型を生むと、第2の坐部に接続する足や、木枠や背もたれも同じく二重にしなければならないので、その奇型性は当然の如く、他の要素に波及することになる。あるモチーフが別のモチーフヘ変容するときに、奇型のままで終わる一正常な形で最後まで到達することがないのは、2つのモチーフを隔てる種々の要素の一部が互換されない結果であることはこれまで、述ベてきた通りだが、もちろん、この要素を入れ換えて、どれを残存させるかによって多くのパターンを生むだろう。このとき、この組み換えこそが決定的であり、他は遊びにすぎないという価値感を導入すべきだろうか。莫然と背もたれ1の全体のフォルム(これも厳密に考察すれば暖昧な定義である)を推持し、坐部2(あるいは背もたれ裳+坐部裏2)にも継続させる、としているけれど、他の要素を逆に残存させてはいけない理由がどこにあるのか。あるいはこれ以外の組織はあり得ないとする基準が、椅子の物語の内容を決定づけていないともいえない。 実際に変容を企図するといろいろと面倒なことが起こるだろう。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 図3.15の1が背もたれ表であり、2が背もたれ裏+坐部裏だとすると、1の時間が2の時間へと接近するとき、1を半分に区分してはじめを2の背もたれ、あとを2の坐部へと振り分けることになるのだろうか。2は裏側なのだから、当然視点が表側から裏の方に回るという変化を見せる。2は「背もたれ裏+坐部裏」としか名づけようがない新しい概念のもとになり立つモチーフである。

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坐部に例のγ的旋回の時間を見るならば、2背もたれ裏を単に上から下へ直進する時間によって捉えるだけでは足りない。もし2で、背もたれ裏の時間終了の後に坐部裏の時間が開始するのだとしたら、坐部を旋回させるのは意味がないように思われる。だったら背もたれ上端から直進して坐部内部にも直進する時間をあて、先端部で全時間が終了する、とした方のが適格かもしれない。また1の背もたれフォルムの残浮が2の坐部を奇型化させるといっても、2が「背もたれ裏+坐部裏」なら、すでに2の正常のありようとして背もたれフォルムが定義されているので、これも変かもしれない。何度か描いてきているように、第1の、坐部、足が枝化する一部分と全体はすでにして奇型である。 図3.16 この奇型にはむろん必然性がある。しかしよく考えれば、坐部、足が背もたれの一部に変容しながら、なりきれなかった奇型でもある。すると第2の奇型も同じように考えたらどうか。つまり前頁最後に書いたようにあまり根拠がなさそうな第1からの残響というより第1においては確かな理由を持っているところの奇型性をあらかじめ想像してしまうのである。第1のそれは、坐部、足 が物理的な背もたれの部分となっているからやや特殊な状態だが。 第2の特質をもっとも強力に表徴し得るような奇型とはどんないでたちであろうか。現実に椅子を引っくり返して坐部裏側を見ると、想像していたような寂しさは感じない。むしろ接続する木枠や足の隆起がエキゾチックなたたずまいを呈している。少々穿った言い方をすると、第2のもどかしさ、痛痒感は、坐部裏そのものの無表情な広がりと、有機的なフォルムを持つ枠や足とのアンバランス性にあるのではないか。つまり、枠や足に背もたれにあった特徴を残存させており、奇型性はここに存在すると考えられなくもない。しかし奇型とは積極的にモチーフを変形させて発生するものだから、さらにどのような変形、を加えて例の疎外感を表現し得るかを考えなければ意味がない。そうすると、少し前まで描いてきた背もたれフォルムを坐部のそれに応用することはあまり意義がないようにも思われる。 とはいうものの、奇型の存在意義を第1、第2の各レベルに特有な世界の強調、支援と考えるのもおかしいかもしれぬ。第1の華麗さ、希望にあふれた至福は、背もたれだけで充分表現できるものであり、ここにあえて異様な解釈をされた坐部や足が登場するのは、むしろその至福、楽天的な世界観を懐疑する任を演ずるからであり、一見曇りがなく整備された地平を揺り動かして転倒するような不気味さを携えていなければならない。つまり、はじめの第一歩からすでに不安と危機を苧んでいる。したがって第2は逆に絶望が特徴である地平の中の希望の光として奇型を位置づけた方が良いだろう。一ーということは、坐部全体のフォルムに背もたれのそれを引きずってきても必ずしも間違いではあるまい。 第2が背もたれ裏+坐部裏という新しい概念で把捉できるモチーフである、としてみても実際にそこにどんな時間進行があるのかには直ちに結びつかない。大体物理的には背もたれと坐部とは別々のモチーフである一ーだが、こういうふうに本当は別々である、などと決めてしまうことが、そもそも常識的な通念に呪縛されているのを意味しているのか?

 

『部屋へ』1993-0121-0130

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ここで、第1 から第3 まで、どのような展開になるか、単純化した図で展開してみる。

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第1 から第3 まで、それぞれ独立した画像はあらかじめ描かなければならないとすると、1 は図2.1 であり、2 が図2.2である。1 は例によって坐部や足を樹木の枝として、(背もたれの一部として)成育する。l-a がはじめにそれを覗かせるが、すぐに消失し、下方から上方に向かって進行する時聞は、背もたれ先端部にて終了する。a-b はそれを反転したものだから、こちらも今度は右側の初発時に坐部、足を奇型的に覗かせる。2 の完成図は、背もたれと足とがはじめから同時に進行し、最後が坐部となっているので*図縛入*という構図になるが、これも、2 は時間進行を逆に左←右とすれは'、途ってくるだろう。2-a と2-b を反転したもの同士として描くとこのようになるだろう。そしてl-b が2-a に推移すればよいのだから、処理結果が左のようになるのだが、背もたれがl-b から、2-a に達するのはよいとして、足も同じようにl-b の奇型のそれが2-a の足へと到達させてしまうのは変だろうか。l-b から2-A への推移は、冷静に考えれば、もともと不可能なことをやっている、と言わさ、るを得ない。H乙あっては部分でしかない坐部が2 では主語となっている。つまり、坐部や足を部分として成立する背もたれとは、その全体はやはり背もたれそのもの以外ではない。ここでは背もたれという存在が、そのまま坐部へと変容するのではないが、それに近いことをやっている。2 において、背もたれは坐部の一部、という存在ではないが(しかし、これも厳密に考えれば本当にそうであるかは暖昧だ) 0 1 では全体であったものが2 ではひとつの要素(あるいは過去の?拒絶される? )となっているのである。同じように考えれば1 においては今度は部分でしかなかった足が2 でひとつの要素と化しでも特別変ということもないかもしれないが。いずれにせよ、変容する背もたれも是も時間進行が逆になっているのが特徴である。1 の背もたれは下から上に向かつて成育するのが2 では上から下へと下降する。1 の足も上から下へと延びるものが下から延びて坐部に刺さる方向へと変化している。この時間進行の逆転がおそらく1 から2 へ転成する際にもっとも重要な鍵となるだろう。少少し前にこれが、偶然、椅子の物語の1 → 2 における転成の特徴にすぎないのか、あるいはすべてのレベル転位に共通の特徴であるのかを書いたと思うが、やはり後者が正しいと考えなければならないのではないか。

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これを単純化すると↓的時聞が↑的時聞に変化するということなので図2.5 のようになる。

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第3 の完成図はかなり面倒だ。í背もたれ→坐部→足J という時聞は背もたれと坐部を足の視点に置くなら、足の部分として見てよいかもしれない。坐部と背もたれは奇型化し、全体から見れば足の先端の付属品でしかなくなる。その後の床、壁、天井、天窓がどうあるべきなのか。図は壁が4 面ではなく視覚に映る一面でしかない。
壁を視線が辿る一面の中の一部をしか描かないのと、部屋全体を構成する4 面(あるいはそれ以上)すべてを描画してしまうのとでは全く意味が違ってくるだろう。全体を少し暗示しながら、周縁はぼかして消失させるという手法もあるが。
椅子が上方から下方にかけて直進するのであれば、床から天窓までは逆に下から上に向かつて上昇する。これを1 本の(2 本の線) で表現すると、3 - a と3 - b とは左のようにならざるを得ないのではないか。

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そして2 から3 への変容は図2.6のようにか。もっとも、1 → 2 → 3 の図は、上から下にならベることの根拠は何もなく、以前考えていた配置も図2.7 のようにきわめていい加減なものだった。いわば、これは一枚の絵の中に複数の絵が存在し、それぞれが連関している、という状態である。ただ上から下に3 枚をならベるだけだと最後の3 がまた1 に帰るときが大変なので、また伊1 •2 • 3 とした方がよいのか、あるいは乙5.. 1 • 2 • 3 と三角形的な構図を描いて円環させた方のが合理的かもしれない。とはいうものの、3 を2 の少し右上に持ってくるとこのようになってしまい、足や背もたれが坐部裏側に達する物語が互懐して、床へ達してしまう別の物語が始まるという転成を全くうまく表現できていない。またこれらの図はきわめて単純化しているが、実際には視点の移動に大幅の変更があり1 に対して2 はかなりローアングルから坐部裏側を見上げているのである。むしろ2 は3 よりさらにローアングルで上を見上げているだろう。背もたれも坐部裏側に突き出ている部分のみでほとんど姿を隠している。 第2 から第3 への推移はかなり陵昧である。第2 は、足+背もたれ→坐部の順であったのが、第3 の椅子部分は、背もたれ→坐部→足となっているようである。つまり

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へと徐々に変容させるということになるがモチーフが複数の要素によって構成されているので処理は難しい。2 が大きく分けると2 つの区分(時間帯)、3 つの区分(時間帯)によって成り立っていることは重要だろうか。
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たとえば、2 の足+背もたれの単位は3 の背もたれという単位に変容すべきなのか。あるいは図2.9 のような関係を形成しでもよいのか。似たようなことは第1 から第2 へ推移するときもやっているに違いない。あるいは、第?の椅子は全部一体化した存在であるかもしれない。今の段階では、2-b として足が始まるか、それが坐部に突き刺さる前に旋回して、足であるのに坐部を途中で発生させ、また足となって床に帰着するという構図である。また背もたれの方も同時に開始されるが、これも坐部に突き刺そうとする前に別の坐部を発生させ、足となって足から始まって足に終わるものと一致して終わる、という状態である。ただし足は4 本あるため、そのうち1 本の足として床に到達するのか、あるいはまた4 本の足に分化するのか。もっとも3 の完成図は、椅子の部分だけ取ってみても奇型である。坐部などは足の装飾物としての存在でしかないだろう。第3 の主題とは床の方にあり、椅子の中の複数要素の構成などは看過されている。2 、3 を構成する要素が複数であり、その単位を意識することは重要ではないか、と書いた。前頁に書いた図だと、相互の単位を括っているf ι0 ~ ものがいくつかあるが、これはひとつだけにすべきで、はないか。なぜなら変容はひとつの単位同士で行われるだろうからだ。


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さらに言えば異なるレベル同士を結ぶ単位ははじめに登場する単位でなければ意味がないのではないか。図2.11 はごく単純な、A 、B 、C 要素(単位)を組み換えたものが異なるレベルに存している図である。

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このとき2 のA と3 のC とが括られる。括られるとは2 のA から3 のC へと変容が行われるということであり、残りの2 のB 、C 、3 のA 、B は、二重画像的にどちらも存在させてよい。そうすると2-3 に描いたl-b が2-a に推移するプロセスにおいて、足までがl - b から2 - a に推移するのはおかしいことになる。なぜ、そこでは坐部が同じように変容していないか、も問題になるが2 にあっては、足と背もたれがもっともはじめに開始するモチーフであるという事実はひとつの根拠になっているだろう。とすると、変容を行うことのできる単位とは2 つのレベルにおいて、最初にはじまる単位のみ、ということになるだろうか、一一最後に終了する単位はそのまま完成図を定着させるべきなのか。 第1 レベルにて、足、坐部を背もたれの部分としてしか見ない見方があるなら、第3 で、背もたれや坐部を足の部分としてしか見ない見方も当然あってよいだろう。第2 では、足と背もたれが同時始発し、次で坐部に移行するが、このとき足、背もたれは坐部の部分ではなかったろうか。前頁に書いた図をもう少し正確に書くと図2. 1 2 のようになろうか。


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一見A とB とが組織されて成立しているモチーフでもをA を観察してB を部分としたりB を観察してA を部分とみなす認識の仕方は当然あるだろう。 ここでそのように、いくつかの要素を内定している事象を見るときの要素聞の関連の種類をまとめてみると一一 現段階だと、1 の特徴であった部分一全体の関係性がまずあり、それから2 の特徴であるA やB的な関係がある。また部分ー全体関係にしても1 の坐部や足は、背もたれ開始にすぐ登場せず途中ですっとその姿を現わして消えていくか、3 の足が、坐部、背もたれをもし部分として持つなら、何となく、完全な部分というより背→坐→足→の順序のよって足の全体が現出するように思われる。

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2-7 の最後に述ベた各レベルにおける要素関連のタイプをもう一度書くと、

1.部分一全体、部分は全体の中の途中であらわれ、途中で消失する。 2. A → B 的関係(突き刺さるもの→突かれるものの関係) 3. 部分一全体のようでありながら、部分→全体と、部分が先に登場し、完全に消滅してから全体が発生する。 4. また新たなる素材の登場。それまでの全体は否定される? 1 はレベル1 の坐部+足と背もたれの関係、2 はレベル2 の背もたれ+足→坐部の関係、3 は、背もたれ→坐部→足として進行するレベル3 の関係であり、4 は、新しくレベル4 とした方がよいか、レベル3 にまとめてしまうのか不明だがもちろん床その他の登場を指している。2 のA → B 的関係とは、A を否定してB が成立するという言語の本質をそのまま端的に示す例ではないか。また3 は腰昧だが、むしろ背もたれ+坐部+足をそれぞれ部分とする新しい全体のあらわれのようなものではないか。4 の新たな素材が登場し、それまでの椅子全体が否定されるとは、2 のA → B 的な関係に似ているのではないか。 2 のA → B 的関係がA の否定とB の肯定によって成立する記号性なら、たとえば1 のシーンにおいて、否定されるものは何だろう。また、そのA → B 的関係の処理方法は普通のA を描いてからBに移行するという訂正法などでよいのか。 はじめの、背もたれへの接近にしても、視点が部屋の中に入って椅子を見つけ、近づいていって背もたれのフォルムにさまざまな幻想を見るという時間性がテーマになっている。つまり、視点の接近、だけで、一種の奇型としての椅子を獲得しているのである。きっと、もっともはじめに現れる椅子全体の外観はみすぼらしいものだろう。とくにフオルムの変形(最初の背もたれは直立する無機的なフオルムを描いている、とか)はまだ考えていないが、等1 において、左から右への時間の拡張は何かから別のものへ変容を企図していることは違いない。しかし、これは、そのみすぼらしい椅子(背もたれ)を否定して、楽しい有機的なフオルムを描くそれを獲得する、という意識のあらわれになるのか。だが、それはあくまで同一モチーフ内いでの変遷であり、第2 のA → B における異なるモチーフ閣での否定、肯定をあらわしているのではない。つまり、たとえば、プラスチックの定規を観察するとき、それがかつて鉄製の定規であった過去を否定して現在のプラスチック性を奪取している記号性と、空間的にとなりの場所に現にある鉄性の定規を否定してプラスチックの定規を得ているときの記号性の違いのようなものである。前者は時聞がテーマであり後者は空聞がテーマになっていると合理化できないわけではないが。要するに第1 のみすぼらしい背もたれから優雅な背もたれへの変容はむろん行なうものの第2 で突き通す素材(背もたれ、足)が突き通される素材(坐部)へ変化することは決しであり得ないーやってみても意味はないだろうからだ。何より坐部裏側の特徴は、副次的な背もたれ先端や、突っぱる足や、枠等が見るものの存在を危くする役を演じており、それらが坐部のゆったりしたイメージを著しく損っているところにある。すなわちこれを対比的にそのままきちんと表現しないと坐部裏側の本質は伝わらないだろう。
それから前頁3 も、足が主題となっているものの、「背もたれ+坐部+足」全体をひとつの新しい足とみなしているところがある。何となくだが、図2.13のような構図を描いているところがある。

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これは単にA 、B がC の部分となっているのではなく、A 、B を否定してC が成り立っているのでもない。A+B + C がまた別なるD というモチーフに化すこともあるだろうから、C の逸脱をどのように説明すればよいかはわからない。

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ただ、ますます問題が拡散しそうだが、図2.14のAB C 3 つによって成立している事象のC という要素によって全体を言わばC と化するというような事態はあり得ないだろうか。いや、図2 .1 4ではちょっと見当がつかないので図2.15ではどうか。

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だが、結局、これは、C の持っている性質をA 、B にも応用することでしかない。A 、B の性質の一部を残しておいて、C の特性を他のA 、B の一部と入れ換えて奇型とすることでしかない。その程度のことだったら、2-8 の1 において、考えた部分一全体の処理とほとんど変わりないのではないか。なぜなら、1 では、坐部と足とを背もたれの一部(枝)としているが、それは坐部、足を奇型化していることであり、本来それらが持っている性質の大半を背もたれの枝の性質と互壊しているのである。そう考えると、3 も広義には、1 と同じく、純然たる部分と全体の関係を形成しているにすぎないことになる。 2-8 のところに書いた4 つのパターンも、冷静に考えれば2 つに分類される。部分一全体として、1 と3 を一緒にして、A → B (A を拒絶してB を意識する)として1 と4 を括ることができるかもしれない。そうするとA → B の具体的な表現方法を得ればよいということになるのか。もう一度、2 - 1 から書いてきた図を掲げると、

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どうも最後のところがよくわからない。部屋は忠実にその外見を再現する方が効果的か、それともすぐにデフォルメされて、椅子的なフォルムを描いて天窓において背もたれに形態を生むのか、またどこで1 の背もたれに到達したらよいのか。 1 の背もたれは上下から出発するものが接近してそこに背もたれらしい表情を察知させながらまた離反していくというという特質を持つ。しかし、最後の天窓が背もたれ的なフォルムを描いてやってくるとしたら3 つの背もたれが共存するということになる。それとも、思いつきだが、1 が二重画像の処理によってひとつのレベルを形成しているなら、4 (3) の最後は、同じく左右対称的な二重画像で終了する、というのはどうだろう。1 の二重自の画像はそれから2 に移行するが、最後の(4 ) 二重画像の二枚目の方はどこかに消えていく。次の物語がまたはじまるということを思わせてその先は描かないのである。何と言うのか、全く新しいレベルを開示させて途中で終了してしまう方のが、完全に円環するより好ましいのは確かである。上の構図はレベルを分けて別々に書いているが、1 における背もたれは2 の否定されるところの背もたれでもあり2 の坐部は3 の足の部分でもあるから、言わば図2 .1 6のような入れ子的構造を持っているとも考えられる。そうすると最後の4 か5 がこれまでのレベルを抱括するものの、実はそれがまた背もたれだった、という結論で終わる物語が考えられよう。

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1 は、部分をたずさえて全体である背もたれが成育するが、2 がA → B 的言説を持っているなら、1 において否定されるものは何か。もちろん足や坐部は否定されていない。1 は、視点の移動があるのだからそれだけでも変容を行っている。1 の椅子としての特質は、何かを拒絶して獲得しているはずだが、何を拒絶しているのか。1 の背もたれがすでに奇型であるのなら、常態としての背もたれから異常な背もたれへと変容していることになるが、そのとき否定されているのは常態としての背もたれか。そうすると2 のA → B もA からB へと変容を企図しなければならなくなるが、突くもの、突かれるものの関係を明瞭に描写しなければ、坐部裏側の痛々しくうら寂しい景観は表現できないのではないか。ただし、左から右への時間軸の拡張とは、結局、過去の意識を左に現在のそれを右に設定する空間化であり「突くもの→突かれるものJ という時聞を2 つのモチーフで説明していても別に間違っていないかもしれない。 もっともその「突くもの→突かれるもの」が単にはじめにA を登場させ、次で時間差をもってBを登場させるだけではあまりに安直であるかもしれない。図2 .1 8のA とB が構成された事象を観察するときの意識はさまざまである。

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A がB を貫通しており、その異常性、やや欠陥のあるB を認識する意識のありょうは当然考えられるし、そのときA はむろん主題ではない。たとえば、時間差を与えて表現するB にはA の貫通した穴を? 設けてしまうとか?穴から背景がのぞかなくとも、元A が入っていたと思わせる窪みをつくってやるだけでもA の欠陥性をイメージできるかもしれない。また、アニメーション的にA が延長して静止しているB に達し、貫通する、という動きがあるから「突く、突かれるJ の関係が生じるのかもしれない。 ともかく、ただA を表示し、次でB を表示するだけだと、A-B が連続しているモチーフの処理と変わらなくなってしまう。一一ブルックナーのようにいろいろなレベルが錯綜している画面全体をつくろうとするなら、肝心なのはまずひとつひとつのレベルにおける絵が具体化していることであり、それはどのような奇型でもよいから、いや奇型であるゆえに、強烈なイメージ、情感を喚起させるものでなければならない。実は椅子は、もともとは比較的そこにあったからという着想から手がけている題材の感が強い。それほど思い入れはなく、したがって無理に椅子の物語を創ろうとするとやはり無理がありそうである。ただし一応は完結したモチーフだからCG としては扱いやすい(とはいっても背もたれのフオルムなど本当に面倒であるが)という事情はある。
坐部裏側がかもす情感とは、すでに劇が終わった後のうら悲しさであり、爽雑物を片づける気力もなく放置しているときのいらだたしさである。坐部に腰を落として休みたいのに、木枠や、出っぱりがそれを邪魔している。またあたりまえのことながら坐部は裏側なので坐ることができない。裏側ではないが背もたれが接触する部分と背後から見たところの撲が沈澱している場所も梼子が持っている安息の概念を覆しているところがあるかもしれない。光が遠ざかることも特徴のひとつだろうか。まともにそこには光が当たっていないだろうが、どこに設定すればよいか。別々の場所に当たっているか、坐部裏側なので逆光にしとけばよいのか。また、思いきって坐部の面積を狭くし、ただ背もたれ先端、足の先端が坐部に接触しているという事実だけを拡大するという方法も考えられないわけではない。永遠に坐ることができない椅子というのか。たとえば、これは冗談だが4 本の足が接触する坐部が4 つに分解しない程度に、接触部分だけを強調するとこのようになる。何とかというイタリア在住の日本人アーテイストの作品にもあったが、坐部であるはずの面積が非常に小さくなっているにもかかわらず、背もたれや足が存在しているという椅子が構造的にも成立していて、床にちゃんと立っていた。本当なら坐りたいはずのところに、いろいろな邪魔が入ってそうはならないというのがテーマだから、ひとつの方法ではあるだろう。最後のところがどうしてもわからないが、すべてレベルのモチーフが奇型なので、最後の部屋も奇型でなければならないだろう。いや、最後が3 なら、足から続いていることになり、足がすでに して奇型であった。2 までが、椅子内構成要素の組み合わせだったのか3 で新しいモチーフ(床'"'-')はじまることにそれほど批判的にならなくてもよいのだろうか。テーマとしているのは、椅子そのものではなく、椅子を始めとする事象を観察するときの意識のありように他ならず、楽しかったり悲しかったりすることがあれば、どんな対象にそれを感じたとしても、充分に主題たり得るのである。3 と4 のどちらかにするかりで終わりにするのか、4 で終了するのか、あるいは5 か)も特別重要な問題ではないかもしれない。希望と絶望の中間的状態や、2 回連続して続く別種の絶望などもあるかもしれない。しかし部屋を奇型とするとき何を根拠とすべきなのか。1 、2 のそれはすべて根拠があるが、それは、椅子の中の部分一全体に拠るところが大きい。1 は坐部、足を背もたれの一部とみなしたからあのようなフオノレムを生み、3 も椅子全体を足として解釈したからあの奇型となったのだろう。単に3 か4 で、椅子全体の否定、新しい部屋というモチーフだけでは部屋全体の奇型は生まれないような気がする。 ————————————————————————029


これは思いつきだが、部屋全体が椅子化し、天窓が背もたれ化する奇型の根拠として部屋は椅子を否定することによって登場しているものの、椅子は足化した椅子である。足は、全く中途半端な役しかになわない。とすると否定されたのは足であり得る。足を否定して逆に獲得するものとは、足とは逆の立場にあった坐部や背もたれではないか。足における、何かと何かの橋渡し的な存在でしかなく、それ自体でいかなる自律制を持たない性質と反対の性質とはむろん、優しく精神を包み込むような場である。簡単に言えば、ゆっくりと腰を下ろした椅子がただ床の上に直立する無表情なオブジェでしかなくなったため、床や部屋の方に優しさを見出した、ということにすぎない。とすると、部屋全体に発見したものは他ならぬ椅子の優しさで、はなかったか。そう考えると部屋が椅子化する(椅子のフオルムを帯びる? )のと全く無根拠というわけでもない。 奇型とは、A を構成する諸要素のいくつかをB の要素と互換した結果生ずる異常性であった。全部取り換えたらA がB になるだけだから意味がないので、一部のみである。もちろん、互換した要素にはある共通項がある。1 や3 の奇型は部分が全体の一部となりフォルム面で、影響を受けて生じた。あるいは部分を全体の部分としてしか見ない意識が奇型を生む源となっている。これに対して最後の部屋の奇型とは何か。

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変な話かもしれないが、<1> においてはA . B とC との関係はA.B が希望ならC は絶望であり、A . B が優しさならC は不吉さ、卑小さという関係性を有している。これを<2> において、全体をC としてまとめてしまった。つまりその時点では全体が絶望となった。ところが<3> でC を否定する新しい界域が登場するが、これは過去のA . B 的な存在と言ってよいのではないか。<3>において生ずるC に対する新しい何かの関係の質とは、はじめに<1> のC に対するA.B 関係と同等なのである。とすると、<1> でC に対して、A . B が持っていた相違点と同じ相違を最後の<3> におけるC に対する相違として新しい世界は持ってよいのではないか。 この奇型は、1 などの部分一全体に生じた奇型の質とどのように異なるのか。何となくだが、上の図から推知すると、<2> から<3> への過程は全体が2 つに分裂した趣きがないとはいえぬ。一一いや、結局、1 、2 と続いてきた奇型の根拠と同じなのではないか。1 から3 、4 までをすべて部分一全体論によって解決することもできないわけで、はない。

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椅子全体を構成するのは背もたれ(A) 、坐部(B) 、足(C) の三要素であるが、要するにどれがどれを部分とするか、という組織の仕方がレベルによって違うというだけのことだ。
1 . . . 背もたれが主であり坐部、足を部分とする。 2 ・・・背もたれ+足→坐部は、見方によっては坐部が主であり背もたれと足とを部分とする、と見られるだろう。 3 ・・・足が背もたれ、坐部を部分にしている。 4 . . .その足が部屋である背もたれ、坐部によって部分とされてしまった。
これだけ見ると一応は理路が通っている。それぞれはすべて奇型的に描かれなければならない。全体一部分(主一従)を奇型化するとは、つまり主の方はそのままで従の方をよほど元の外観を逸脱しない限りで、主に近づける(主の性質を帯びる)ということでなされると見てよいか。( 1 • 2に変容するフオルムは奇型ではなく、これは例の変容のシステムによって奇怪に見えるだけだ)しかし2 の坐部が主であり背もたれ、足が従としたとき従が奇型化して主はそのままだとすると、具体的な状態がわからない。3 はOK である。全体が足のフオルムを帯びている。4 も少しわからない。なぜなら、主である部屋の方を変容することを考えているのに、逆となってしまうからである。それとも、1 と3 、2 と4 はやはりどこかが違うのか。また、2 と4 とも何かが異なっているか。 第一、4 で椅子化する部屋とはどんなフオルムになるかがよく掴めていない。部屋は特別奇型化(椅子化)しなくとも通常のフオルムで、ある意味では椅子化している。天窓は、やや怒意的に背もたれへ達するために想像したモチーフである。最初は普通の壁にある窓であった。天窓の方が天に達する一一あるいは天窓の飾りを通して空の方が見えやすい、という事情があった。たとえば、本来、4 で否定された足に対して登場するのは「床」だけにすぎないのだが床を椅子化するために「床→壁→天井→天窓J と奇型化、変形した、というようにも考えられる。このときは平常の壁、天井、天窓という部屋の外形がすでに床の奇型なのである。この考え方は、比較的通りそうだ。 もっともたとえ平常でも部屋の大きさをどうするか、椅子に対して普通持つ大きさにしてしまうのか、あるいは背もたれ→足までの長さと大して変わらない大きさにするのか、等によって全く受ける感じは違ってくるだろう。それともまたほとんど左右対象的な構図を椅子と、椅子化した部屋とで対比させても一興の半分ほどはいくかもしれない。 どのような形であれ部屋が登場し、最後の窓枠の飾りが出現するとしたら、それをどのようにして終わらせるかがまだわからない。それまでは陰湿でくぐもった部屋内部が天窓の窓飾りから通してみる蒼湾によって天上の無限をほのめかす、という変化はよいだろう。あまり深い意味はないが、距離感を出すために床や壁には格子状のパターンを冠してもよいのではないか。上を見上げる動作のために壁の格子が大きなパースベクティブを描いて凝集する状態を空想している。1 は二重性a 、b のうちb が2 に移行する。2 もa 、b のうちb が3 に達する予定である(とはいえ、2 のa - bのa は1 のb である)。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

『部屋へ』1993-0111-0120

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整理すると、レベルの相違である第1、2、3のそれぞれの事象がある。事象複数の要素が組織化されて成立しており、1-2-3の各要素は、「背もたれ=枠=樹木」とか「坐部表側=坐部裏側=窓」と対応し合っているということが条件だろうか。しかし第1にはなく第2で登場する床なるモチーフもある。また対応し合っていても組織のされ方がレベルによって異なっている。主従関係等がそれである。実際のメタモルフォーゼはひとつの要素においてのみ行なわれ、残りは二重画像である。一一こんなことでよいのだろうか。前頁に書いたように、枠+坐部+足と壁+窓+樹木との類推は半ばこじつけに近く、壁から窓、窓から戸外へ至る意識のプロセスは、希望へ至る道であり光に反応する、という意味でははじめの第1の椅子に似ているけれど、フォルム上の共通性を得ているわけではない。
たとえば、樹木をやめて壁が足なら、天上を坐部とし天窓における唐草模様を背もたれ(枠)とするのはどうだろう(図1.17)。樹木?云々よりまだそれほど無理がないように思われる。

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————————————————————————12 しかし物語は部屋内部で完結するので意外性はない。(第1の意識プロセスは、近いうちに2に転落する運命にあるので、むしろ下降気味だが、3はやはり少しずつ上昇する気運にあって(?)4とは逆のような気もする)

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図1.18にここ数日間で得たかもしれない構造図をまとめてみた。図中の樹木的構造を形成しているのが、例の主従関係である。しかし、レベル1から3まで下から上に向かっているところなどから主従関係はつかみにくい。一一→で示したのが、直接メタモルフォーゼするわけではなく、二重画像にとどまるものの、変容する要素同士の関係となるが、この関係そのものを画像処理的に行なうわけではないので、2と3の類推を、想像力によるそれにとどめておくのか、それともそれ以上の作業を要するのか。レベル1〜3の独立した画像を準備としてはじめから描かれなければならないとするなら、例の奇型はどうしたらよいか。レベル1は1-9の図に描いた如く、坐部+足は、背もたれの一部、従属物として処理されるはずだが、何となくフォルム自体も背もたれの性質を帯びなければ意味がないようにも思われる。これはほぼ奇型である。奇型とは、当のモチーフの一部の性質、要素が失われ、同時に他の無関係のモチーフの一部を得ている状態のことであり、むろん、2つのモチーフのある意味での共通項を得ている状態でもあり得る。かといって、全面的に他モチーフヘ移行するのではなく、過去の残滓をを引きずっており中途半端な状態にある。また、足+坐部の中に流れる時間の解釈の違いと、フォルム自体の違いとは、別々の問題となるのだろうか。時間解釈とは、足+坐部を形成する時間(=ポリゴン序列)を背もたれ的に流れるだろうと見ることであり、そのことと、足+坐部のフォルムを変形して崎型化することとは別々の問題になるのか。円柱形を回転体(rathe)と見るか掃引体(extlude)と見るかの違いによってフォルムそのものの相違いが出るわけで、はない(図1.19)一一いや、時間は常に左から右に拡張されるので、その意味では画像結果は異なってくるものの、原形自体には変化はないはずである。

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坐部+足は面積的に背もたれより小さいというイメージがあるがこれも意識的な操作がなければそうはならない。 背もたれの方を観察するとそのフォルムの複雑さにまず戸惑わざるを得ない。前頁の図では背もたれという一字ですましているが、実際は樹木状のフオルムは随分入り組んでいると見なければならない。少なくともCG化するときには、ある一定の規則によって全体を統ーする必要があり、この分析はモデリングにかかる労力も合めると相当時間がかかりそうである。したがってそのあたりは十分に複雑な言語構造になり得る。あるいはそうしなければCG化することの意義がない(言語ですんでしまうだろう)。しかし背もたれ観察時に坐部や足は従属物であり、こちらの複雑さは意識化していない。よって言語構造的には単純であってよいはずである。(だが、また別の言い方をすれば、一見複雑な背もたれを分析することは、一定のシステムによって組織化されている状況を看取する行為だから、単純化の試みでもある)
先に、背もたれの樹木状の構造はそのまま明確な言語構造図として描写されなければ意味がない、と書いた。しかし、そこまで言葉に換言できるだろうか。図1.19に背もたれの図を載せておく。これをひと筆書きで描けば、1-7に書いたような開始点で終了点は定まる。しかし、これを背もたれに対する一定の解釈にすぎない。結局、背もたれや他の要素をどのように解釈するか、は、そこにいかなる時閣の序列が継起するかを考えることである。したがってそれを言語構造的に解明することも、時間序列を明らかにすることとつながっていよう。開始点からはじまる線の分岐を単純に描くと1で一度分岐した二本の線がまた2で分岐しているので、国1.20のような樹木状をつくっていると考えられる(ただし、これはもちろん背もたれの右側の部分だけを扱っている)。


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これを樹木状の構造だけを抽出しただけで、線が渦巻き状を描いているところなどは考慮していないが、もちろんこれも扱わなければ意味がないだろう(あまり忠実にやりすぎるとれ左に書いている言語構造図が上の絵そのままになってしまう予感がある)。


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ところで、線の長さを考え、図1.21の上から下に向かつて時間が経過するとするなら、上図のようになるだろうか。1の分岐点の一方はごく短く終わるがもう一方はかなり長いからである。少し実際の絵の方に近づいている。また、上の絵に示したaとbとのパートにまず二分すると見るなら図1.22のようになり、先端がひとつの分岐だけを行うパートがふたつならぶことになる。もっともこれもaが全部終了してからbが始まると考えるなら、図1.23とでもなるのか。あるいは、図1.24のようにか。


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ともあれ、これらの時間化をアニメーションで描いてみることは簡単である。もっとも樹木らしい成育は、図1.22である。また、こうした分岐などが一切発生していないという解釈も当然あり得るだろう。たとえば図1.25は、渦巻き状のフォルムすら考慮しない場合で、背もたれ最上部(最下部)から最下部(最上部)に直線的に時間が流れると見ている。ある程度渦巻きフォルムを計算に入れて分岐なしに解釈する一例に左下図などがあるかもしれない。背もたれは比較的直裁的にそのフォルム自体が樹木状を形成しているが、他のいろいろなモチーフにおいてもこうした樹木状をもっているだろうし、またそれを直線的に解釈することや、もっと別の分岐をすると、いろいろに解釈することはできるだろう。 ————————————————————————14

おそらく第1レベルで得る背もたれの時間とは前頁末尾に載せた樹木状に分岐する時間であり第2レベルで、得る背もたれ=連結部の時間とは上に掲げた直線状のフォルムではないか。しかも、第2のそれは上から下に延びる時間であり方向が第1とは別になるのではないか。 さらに1-17に書いた問題を考えなければならない。第1における坐部+足をどう扱うか、時間の序列はある程度見当がつくにしてもフォルムをどうするか。フォルムはやはり変形して奇型としなければならない。しかし、そのとき、何らかの要素を捨てて何かの要素を与えることになるが、この根拠をどうしたらよいだろう。(ちなみに、本とそれが入っている本箱を見るとき、本を意識化するときは本箱は従属体であり逆だとそれも逆となる。何となくどちらも同時に得ることかもあるかもしれないが、その本+本箱は別のモチーフとなっていると考えよう。つまり、背もたれを意識化するときは坐部+足は背もたれの一部にすぎず、それはもはや坐部、足の本来の機能すら喪失しているのである。一一つまり、あたりまえのことのようだが本を意識するときは、本箱は意識されていない)。 イメージ的には坐部と足は図1.27のような変形を受けるような気がする。これはむろん接続する背もたれの螺旋的な線のフォルムを受け継いでいる。ただし、このことは、ただちに、左下図のように、連結部と坐部は左から右に向かつて直線的に、足にあっては上から下に向かつて直線的に時間が流れるものとみなしていることにつながらないか。しかも赤線で示した3本の線(時間)は同時に始まり、終了する。そしてそれぞれの→が接続する上の背もたれのJ"的属性を帯びている。

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第1の坐部や足が、背もたれのごく一部にすぎないとするなら、それは他の枝と同じく幹から分岐した枝のひとつであるとみなすこともできないわけではないかもしれない。
また大きさも変えなければならない。背もたれの開始時は視点が椅子よりかなり遠去かっているので、背もたれ開始からすぐに登場するにすぎない坐部、足も必然的に小さく処理されることになろうが一見、背もたれの分岐した枝のように見えてよく見ると坐部、足だった、というまさに崎型を見るときの状態は保持したい。ところで、幹、枝と書いたが、背もたれという樹木のどこを幹と言い、どこを枝とするのか。図1.29.Aのように開始から終了までの1本を幹として残りを枝とするか、あるいは図1.29.Bの幹は途中までで残りをすべて枝と見るか、いろいろな見方はあるだろう。


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つまり、もし、坐部+足を樹木の枝とみなすのなら、よくわからぬが、背もたれ部分における幹に対する枝の関係、をそのまま、背もたれに対する坐部+足関係に加えてしまえばよいのではないか。一般的にそうした操作があり得るだろうか。これを抽象化するとA(背もたれ)がありAはAl—A2(幹—枝)によって構成されており、またB(坐部+足)という事実がある。Aに対してBは当然ある関係を持っている。またAlに対してA2もひとつの固有の関係を持っている。このA1に対するA2関係をAに対するB関係に加えてしまう、ということである。あるいはまた、A-B関係以外にC-D関係がありC-DにA-Bを加えてしまう、という事態が存在するかどうか。A1-A2関係をA-Bに加える、というのはさして斬新な操作ではないかもしれない。すなわち、A1-A2を構成する要素をひとつ抽出し、それをA-Bに挿入するだけのことである。
前頁末尾に書いた図をもう少し柔軟に書くと、幹一枝の関係は相対的に決まるだろう。図の黒に対して赤は枝になる。とすると、幹に対する枝の関係一一要するに、幹と枝とを隔てる項目は、幹に対して枝は極端に小さい(短い)、また成育の方向が逆になる、当然の如く、枝は幹から分岐する、第2が挙げられるだろう。

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そうすると、図1.28の坐部、連結部はむしろ、幹と一体化しており、足だけが枝化している。足は、方向が逆になり図1.31.1のように曲がるだろう。また、坐部、連結部も足とともに枝化させるのなら図1.31.2のような処理にならざるを得ない。

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しかし、先に書いたAを構成するところのA1-A2関係をA-Bの関係に加えてしまう、という操作はここだけの特殊な操作にとどまるのか、それとももっと本質的な内容を含んでおり、今後の第2、3レベルにも同じことをやるべきなのか。いや、しかし、元々はAとB(背もたれ、坐部+足)とが2つの主題となり得る独立性を持ち得るモチーフなのに、BをAのたかだか部分であるとしてみなせないのなら、それは、同時にBをAlに対するA2としてしか見ていないことのあらわれではないのか。
坐部、連結部が幹の一部であり、足が幹から派生するひとつの枝にすぎないとすると、図1.32のような言語構造図を書けるかもしれない。(もっとも言語による図が、あたかも絵そのままのようにしか書けないのは問題かもしれない)絵そのものに近似させて、「坐部+連結部」を幹の一部、「足」をいくつかあるうちのひとつの枝、とするより、ここは文字通り、それらを幹であり、枝であると断定しでもよいかもしれない。どのような言語図を描いたらよいか。図1.33のようにか。

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第2レベルの時間推移は前頁に書いたように逆に上方から下方に分岐なし(幹一枝の区別なく)に行われるとする。ここは、やはり第1に得た時間が徐々に第2の逆方向の時間へ変容させる、と考えてよいか。二重画像の処理を用いれば、第1の最期もしっかり描くことができる。第2において今度は右から左に拡張する図が変容して上方から下方に至る時間へと変化する。今度は、背もたれを直線的に解しつつ、続けて連結部へと達する。連結部は背もたれ内の幹の途中経過的な存在ではなく、背もたれの先端となっているのである。

同一モチーフにおいて異質の時間継起を見出すことは、それほど多くのバリエーションを挙げられないにせよ、比較的簡単である。それを幾何学的に分析したとき、見出すのはごくわずかである。 モチーフを、形態論的に把握することは幾何学的認識と同義だろうか。時間継起の共通項に「連続」がある。およそ非連続なものは、一定の規律にしたがった時間とはみなされない。円柱形なら、ほとんど回転体と見るか掃引体と見るかの時間以外にはないように思われるが、この幾何学化以外の時間発生があり得るか。無機質な円柱ではなく何らかの修飾を施した円柱ならもっと他の時間が考えられるのか。ともあれ、同一モチーフ内の時間をいくつか挙げることは簡単だし、2種類のA、Bという時間の間にA→Bとするメタモルフォーゼを企画することもいくつかの方法論によって可能だろう。しかし、椅子の場合は、複数要素によって構成されておりなおかつ椅子以外のもの一床という存在も巻き込んでくる運動を有していて完結していない。背もたれが坐部+足を枝としながら成育する時間は明快だが、その次の時間がややわかりにくい。上から下へと連結部をたずさえて直進し、それが坐部を貫通し裏側に達する、ととろまではよいが、残りの坐部や足はどうなるのか。 第2レベルのテーマとなるのは、椅子の裏側ばかりが、前面に顕著であり、光が当たっていない暗さがそれを象徴しているが、ここからすぐに形態論が出てこない。せいぜい視点の変化ぐらいである。第2における時閣の推移は、これまでの適当な判断によれば、裏の木枠(背もたれ先端)→裏坐部→足→床というように、連続的に変化するだろうとしていた。第1は背もたれを主語として述語的な坐部、足を収飲していたが、第2ではどれが主語になるのかは意外とわかりにくい。あえていえば、パックか、床になるのだろうか。ややそれだと性急な感じがするし、また第1にはなかったパック(床)が登場してくる中途半端さが気になる。ましてパックが主語だと、第2のモチーフは椅子ではなくなってしまうということになりかねない。もっともたとえば坐部を主語にしたりすると、当然*矢印挿入*的な時間を描いてそれは生成するだろうから、背もたれを今度はその一部として扱う必要があるので、先の背もたれを上から下へ直線的に解釈しようとする時間は無視されてしまう。
第1で、坐部や足は背もたれの中の一要素=枝?とぐらいの扱いしか受けていない。このとき、時間の序列も、背もたれから始まり、途中で坐部、足が枝としてすぐ終了し、また背もたれに移行し最後も背もたれで終わっている。第2は、今のところ、背もたれ→坐部→足と三段階的に移行するだろうと考えているので、A、B、Cの三要素の構成による事象が下図のように1と2とでは単に組み換えられているという違いだけではない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

つまり、第1の坐部や足は背もたれとは異なる要素というより、やはり背もたれの中の一部品にすぎないのであり、第2の独立した坐部や足ではない。ということは第2で登場する坐部や足は、新しい要素であり、1の中の枝としての坐部、足とは無関係と見るべきか。

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第2において、背もたれは、坐部を突き抜けて裏側に達している。とのことはもしかすると坐部の寂しさを助長する大きな要素になり得るかもしれない、もし第2の主題をいきなり床などに持っていかず、あくまで坐部の裏側とするなら、背もたれとともに、足も裏側に突き刺さっている。他のものによって貫かれているという事態は痛さを連想させながら、どこかに悲しさを暗示させる要因となりはしないか。坐部の裏側を見ると、やはりそこにはひとつの物語があり、そこを看過するわけにはいくまい。 ところで、以前考えていた第1→2への転換は、それぞれを図のように二重画像とし、1のaはそのまま最後まで定着させるが、1のbが2のaかbのどちらかに移行するかはわからぬが1→2としてメタモルフォーゼするというものだった。これをそのまま背もたれや坐部に応用すると面倒な問題がいくつか起こる。


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1のaが背もたれ下部からはじまり、すぐに坐部、足を枝として解釈、?捨象し、先端に達する時間だとし、それが左から右に移行すると考えるなら、l-bの右から始まるのは、逆に背もたれ下部となる。うまく描けぬか、bが右から左に移動しようとするときの初発時に、また奇型としての坐部、足が登場することになるが、これは仕方がないのか。図1.35の点線部分によって原型である椅子(もたれ)を暗示させるという目的があったので、たとえ奇型としても坐部、足が2回登場するのはあたりまえであったか。

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ところで、再び図1.36を分析してみる。椅子の第1aが下から上方に向かっていく運動なので、それに合わせて、左図も1のaは下方から上方に時間が経過するものとする。すると、図l.36.Aは、1のbにおいて逆に右や左の推移は、下から上に向かっていくものか、言わば2には逆時間進行的に下方に向かつてしまう。それに対し、図1.36.Bは、1のbはそのまま、2の上方へと推移する。

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もっとも1のbは2のaに到達している。この逆時間(?)を辿って別なるレベルへ達しようとするところが、ひとつの仕掛けであったはずである。より具体的に言えば、1のaとbも相対的には逆の時間を持つ関係にある。扱っている素材は1本の線分のみであり、これを↑としてみるか、↓としてみるかの違いしかない。時間経過を左から右に空間化するということだったら、当然<向左上…註1>は↑であり<向右下…註2>は↓であるから、それだけで時間は逆の関係にある。1と2で減速、加速の違いを設定しであるのもまだ恣意的だが、これは、また別の言い方をすると、時間を左→右へと空開化するのと右→左へ空開化するとの相違とも考えられる。そうすると、2のa、bは逆にしなければならないかもしれない。ともあれ、1から2へ推移するl-bが1の下から上へ向かう↑的時間であるはずなのに、それが2の↓的時間へと変わってしまうのがAの方であり、これを暖昧ながら逆時間を辿る、と表現したのであった。またさらに1-bは右→左へと辿るのに2では左→右に変わっているのもひとつの仕かけである。Bの方と言えば、1-bが2で左→右には変わるものの、↑はそのまま?として2に達している。ここはむろんもっと詳細に分析しなければならない。
ところで、椅子の1→2にあって背もたれの↑的時間が2の↓的時間へと逆転することを書いてきたのだが、これは先の逆転とは無関係のものだろうか。背もたれの成育する時間が↑と上方に向かったのと、第2において主題である坐部を突き通す役を果たすだけのために↓へと下方に向かうのは、たまたまそのテーマから時間が逆転したと見るべきなのか。たまたまなら、もしそれをさらにA図のように時間逆転を企図すると一体図はどうなるか。

相当遊びの要素がはいっているが、1-25に述ベたように第2の物語の本質に、坐部裏側は他の背もたれや足によって突かれることによって相応の寂しさを顕現している、と考えるとする。実際に坐部裏側を観察して感じるのはある種の暖かさであり、枠部分の波形(註3)のエキゾチズムである。しかし一方で、取ってつけたような枠部分の中途半端さ、まさしく裏側としての放置されている荒廃もあるに違いない。そこに突き通る足や背もたれは、言わば邪魔な存在であり、本来、裏においても得られるだろう安息を排除しているところがある。このとき、第2の時間が、突くもの→突かれるものと進行すると考えると、「背もたれ+足」→「坐部裏側」となり、上方から下方に向かつて直進する背もたれと、下方から上方に向かつて直進する足とは同時に時間進行する、と見てよいかもしれない。それが終了してから坐部の時間が始まる。図式化すると、背もたれの一部の枝として足や坐部があった1に対して2は左図のような構造になるのであろうか。次の第3はどうなるか。

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第3で希望を導入せずに、また別の絶望として新しい床を登場させる状況を設定してみると、今度は、足も背もたれも坐部も区別がつかなくなった椅子全体に対して床という新しい素材が登場する。しかし椅子全体というのはつかみどころがないので、全体を足として解釈する、と考えてはどうか。

足の先端に申し訳程度の坐部や背もたれが付随している。そう考えると、結局、第1は背もたれが主語であり第2は坐部であり第3が足である、という単純な構図になりかねない。他の素材は主語の部分となるが、それでも図式化するとし2、3はこのように違ってきそうである。第4はどうなるのか。


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その後、新しく出てくる素材は壁であり、天井であり天窓の唐撃である。天窓における唐草模様が最初の背もたれのフォルムを想わせてこの物語は一応完結することになっている。これもいささか創作的だが、足→床+壁+天井や天窓の全体が、どこかに足→坐部→背もたれという下から上に向かっていく希望としての椅子のありかたに照応している。第3では、どこまでも広がっているような閣の中に消失する床が主語となっている。椅子は主題から外れており、外観も光が照射しないシルエット的なたたずまいを呈している。ごくあたりまえに考えると4は直線的な構造にならざるを得ない。 ただ、これまで通りに処理すると、最後の天窓は天窓のフォルムを描くものの、はじめの背もたれとのアナロジーは見出しにくい。さらに第5の状況をつくって、天窓が背もたれ化する場面を実現させるのか、それとも第4の壁、天井、天窓は、椅子の足から坐部、背もたれに視線を移動させるときに感ずるような「椅子の生誕」的な要素を付加してやればよいのかーーたとえば、壁、天井、のフォルムの一部を坐部から、天窓のフォルムの一部を背もたれから得る、というように。1はそれ自体で奇型であるから、4もまた部屋とも椅子とも判別のつかない奇型にしてもよいということか。

3で床が出てくるものの、1、2、3だけを取ると、足、坐部、背もたれの構成がそれぞれ異なっており、この中だけで物語を組織するだけなら簡単かもしれないし、完結するだろう。しかし3以降で椅子以外の要素が登場するのでわかりにくくなる。また床も、面積的には広く、墜ともなれば、椅子全体を囲むほどの存在であるから、状況の中に存在するそれらを全部扱うべきなのか、それとも視覚に映る範囲内でよいのかは、難しいところだ。
もし、もっとも一般にわかりやすく画面構成を企画するなら、二重画像的な操作など行なわず、最初から最後までひと筆描きのように円環させる方法が適格だろう。しかしこれだとあまりに完結しすぎていて、CG画像が実現しなければならない例の<間>や虚無的な地平を開示しにくい。二重画像とは、方法的には貼り合わせ的な合理化の手続きを取るか2つの絵が接近しながら最後のところでは一致しないものの、そこに固有の物体が存在するかもしれない、というニュアンスをもたせる技術であり、独立した背もたれが存在していそうでやはり消失していくような構造とかなり適格に形態化できるように思われる。したがって最後に、窓の唐草か、戸外の樹木が再び背もたれに帰着するにしても完全に円環させるのではなく、その隣りに影のようにひっそりと降り立つことによって、よりアンビバレントな構造を定着できるのではないか。

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先に3 と4 とを分けて書いたが、ここはやはり3 で終了するとしたらどうか。
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1993-0101-0110

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[19930101]

「椅子のある風景」における構造図を再度掲載する。 1 足一坐部一背もたれ 2(足→床)ー坐部ー裏の木枠 3(足→床→窓)ー坐部一木枠 4(足→床→窓)ー窓枠ー外の樹々

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かつて、1希望→2絶望→3希望→4絶望となってうまく円環しないと書いたがこれはさして重要な問題ではないかもしれない。またあるいは、3と4も同じにすることもできないわけではないかもしれない。ともかく、単純化すると、上図のような構図にならざるを得ず、結局、この4っか3つのメタモルフォーゼを順番に行うことをややわかりにくくしようとしているということになりかねない。メタモルフォーゼが作業の中で重要な処理でありおそらくレベルの転図は、例の、「時間の進行が逆になる」ありようとともに、それをもってなされるのは疑いようがない。しかし、かねてから想像しているのは、メタモルフオーゼとして展開するのは扱う対象の中のごく一部であり、例えば図1.1の△+○+□という構成のもとに成立するモチーフが、△+○+□構成モチーフに変化するのは、何となくだが、○→◇だけのメタモルフォーゼによって達せられるのではないか、という思いがあった。

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それが、椅子の例だと、背もたれになるはずであった。しかし、上図のように書くと、1→2→3→4へと、構成要素全体が徐々に変化する状態を図示するようであり、とくに1→2にあって背もたれ→木枠のみならず、足→(足+床)への変化も生じている。はじめから作業の主題を純然たるメタモルフォーゼであるとしたら、事はここまで面倒ではないだろう。単にそのモチーフが複数の構成要素によって編集されているだけであり、一見あまり脈絡のないもの同士のそれが、より奇異なるイメージを提供するだろう、というだけで終わるだろうがらだ。しかし、もちろん、キリンとコップの例を俟つまでもなく、無関係なりに、必然性のある共通基盤によってそれは裏づけられていなければ意味はないが。

[19930102]
また、足が「足+床」に変容することなどがあり得るのか。12-25に書いたように、足の持つ二つの側面は、一方が背もたれや坐部等の椅子の中でももっとも華やかな要素を支えるための裏方的な側面であるとすれば、他方は、独立しようとしながら視線がすぐに床の彼方へと流れてゆく粛条たる状況となる。足がその存在をかすかに顕示するのは、背もたれを思わせる、やや有機的なフォルムにおいてでしかない。これはよいとしても、それと足と「足+床」とに分けて考えることができるのか。 普通に考えると、裏方的な足なら、足が支える坐部、背もたれの部分を欠かすことはできず、足そのものよりも「表舞台としての坐部、背もたれ+足」となり、それが「足+床」へと移行することを考えるべきではないか。物理的には、他のものを支えていた足が、今度は、下に接触するものを持つ足へと変化しており、常に他のものとの関係によってしか存在し得ない足の、相手とするところのものが上から下に移動した、と捉えることもできないわけではない。 図1.2


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もし「足」→「足+床」への変容を企図するなら、ちょうど、○が○+△へと変化するプロセスを実現しなければならないことになるから、難しい。あるいははじめの○の中に後半の○+△の△に相当する部分を無理にでも見つけなければならないということになる。 図1.3 複数の構成素のうち、主題となるのは、背もたれであるのは言うまでもないが、先の1→4の図だと、背もたれのみならず足の部分も変容している、ということだった。しかし実際の処理法においては、例の変形をするのは背もたれのみであり「足+床」は、足から変形して新たなフォルムを形成するのではなく、二重画像的に別の場所に離れて存在するにすぎない。これは意外と本質的な処理なのではないか。図1.4の図で言えば、○→◇は変形をされ、△→<?>というメタモルフォーゼがあるから<?>の方は、ムから徐々に生じるのではなく、それ自体独立して存在させるのである。また1と2の閣で、背もたれのみならず、足も別のそチーフに変化するとしても、足から「足+床Jへという特殊性はあっても、各要素の変化自体はとくに稀少な事態ではない。第一、1と2とでは視点や視線のデータが全く異なっているはずだからである(1は上から見下ろす視線であるのに対して、2は下から見上げるアングルとなっている)。 つまりレベルの転換は、○○○ゆえに△△△なのだという驚異をともなって起こる。かつて思いあぐねた「ふと気がつくとすべてが一変している」事態に他ならす、背もたれゆえに、足も1の足ではなく2の足+床だったのだ、という意識のもとに革命が行われる。そのとき、例の変形手法によって奇怪な相貌を刻印されるのは、背凭れだけでよく、足に対してそれを行う必要はない。背もたれというレベル転換の要因となる要素以外は二重画像そのままでよいのではないか。


●そうなると、第2レベル以降は、必ずしも背もたれが、また新たなるレベル転換の要因となる必要はないのかもしれない。「部屋」でお皿が主題となっていることは改めて強調するまでもないが、そのお血が要因となって次々に新しい物語が生成しているわけではない。いや、お皿ははじめと終わりにしか登場しない。最初こそ、腰昧な記憶を頼りにいろいろな訂正がされるもののすぐに否定され、そのまま最後まで出てこない。物語を語る上で必要となるモチーフ要素を、○○○ゆえに、と、レベル転換のための要因となる要素と、その結果、△△△であると肯定や否定をされる要素とに分けるとしても、お血は後者の方であり、なお最初と最後しか出てこないのである。お皿のはじめの否定はお皿が乗っていたテーブルの存在によって行われる。そこでお皿は消去され、第2レベル以降の物語にはもっと別の要素に関する訂正が行われている。

[19930103]

●部分=ディテールの拡大によって全体が否定される、と考えるのなら、今書いたレベル転換の要因となるものが部分であり、お皿に相当するのが全体である。そうすると、最終的に取り沙汰されるのが背もたれであるなら(それがお皿にあたるのなら)、背もたれをレベル転換要因とするのはおかしいのではないか。第一、背もたれそのものは希望を喚起する素材であり、いくらそれ自体を観察していても、そこから坐部裏側の木枠を連想するのは難しいと言わねばならぬ。背もたれは、何によって坐部裏側木枠に変化したのか。背もたれ自体を変化して木枠化することを考えていたがこれは間違っているとも考えられる。
●それとも問題を逆にして、背もたれゆえに足は「足+床」であり、坐部は裏側から見た坐部である、と考えてみる。背もたれそのものは確かに希望をしか暗示しない。しかしそれが坐部の端に接触している一一坐部の今にも床に落ちそうな危うい場所から発生しているのも事実であり、空中に浮遊している唐草模様である渦巻き状を見ているだけなら希望であっても、坐部の上に成立しているその接触地点を見ると必ずしも希望ではなく、むしろ不安な感情を暗示しているとも考えられよう。一ーやはり、第2レベルの登場は、大きく視点の位置が移動した結果の坐部裏側がかもす印象に大きく負うのではないか。

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しかしそうなると背もたれをいきなり坐部裏木枠化するのはかなり問題があることになる。もし、そこで、すぐに木枠化するのなら、背もたれは実は木枠であった、それゆえに坐部は裏側であり、足は足+床であったという物語に改めなければならない。つまり背もたれの木枠化は結果ではなく、別なる結果の要因でしかない。

●実は、背もたれから坐部裏側に至るプロセスがあまりはっきりしない。背もたれと坐部接触部に何らかの寂寞を覚える、というのは現実にそうした実感を覚えたというより、むしろ頭でひねり出した根拠と言うに近い。したがって一体何を理由に寂しさの境遇に転落するかが明確ではないのである。ただ、かすかだが、接触部の、ぞれも裏側の地域には、やはり、あるわびしさを覚える(図1.6)。

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[19930104]

部屋の綱の壁と床の境界に感ずるあの不安定な地帯、必ずほこりがたまっており、普段顧みられることもない中途半端な場所であるという記号性は顕著だろう。それから今、椅子を見て発見したそれから、虚心に観察すれば、椅子をひっくり返して裏側を見てやっても意外にそこは暖かいイメージがある。木枠と書いてきたものの、四辺を形成する無表情な枠ではなく、一部は今述べた背もたれの先端部であり、一部には背もたれ的な装飾が施しである。想像で描いてきた寂しさしか、絶望に陥らせるような拒絶感はあまりないと言ってよい。(もっともこんなことはある程度は創作してもかまうまい)。また別の物語が発生する予感もないわけではないが、背もたれ自体に陽が当たってキラキラと煙く希望の光を感ずるのはよいとしても、一面でトーテム・ポールを連想させるやや鈍重で土俗的な重苦しさを感ずるのも事実である。陽だまりの中で輝くそれは木材より鉄製の質感を持ち、金属の反射によって光っているイメージが強い。木材は暖かみと同時に鈍重さの中の暗さを併せ持っていると見るべきだろう。

●ちなみに背もたれを実際のモチーフとなっている椅子から正確に描くと下図のようになる。左右対称の構図である。

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これをそのまま普通のCGなみにモデリングするのもかなり厄介在だが別のモチーフへの変容のために、ある一定の序列化を行うのも随分面倒な作業だろう。背もたれを下から上に延長する時間性を持つものと考え、言わばひと筆描きで描画できるように整理してみると、図の開始点にあたるところから発生し始め、連続して最後は終了点のところに達する。渦巻き、あるいは樹木状の対象を処理するとき、根の部分からそれが発生するのはよいとしても、枝別れしていく枝の部分をどのように時開化するかが問題となる。たとえばAは、3本の枝によって樹木が構成されていると考えるなら、(5)の位置で(1)と(2)の2本に分岐しながら、(1)の最後と(2)の最後は同じである。

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[19930105]


しかし(2)は途中で(3)をも分岐させるが、(3)の最後も同じである。Bは、枝単位に描画が行なわれる。Cは、枝(1)と枝(2)が分岐しながら枝(2)の成長途中で(1)は終了してしまう。

 

あたりまえのことだが、このように表面的には同じ形態ながら、決してアニメーションを目論むのでもないながら、時間の組織のさまざまなバリエーションが得られる。また、前頁の背もたれの開始点としているところは、坐部自体には接触しておらず、背もたれ全体を支える部分が、下にあり、それが坐部と背もたれをつなくげているのも注意すべき事態かもしれない。その部分を何と呼ぶのかは不明だが、坐部ー背もたれ連結部とでも言うなら、厳密に言うと背もたれと連結部とは別のモチーフなのである。一般の椅子も正確にはこうなっているのだろうか。今の幻想は、背もたれが成育しながら渦巻き状のフォルムを描きつつも、最後にそれが表情を変えて先端が急に降下し、連結部化して坐部に突き刺さる、という物語だ。つまり、本来なら背もたれは連結部から発生しているのに、それが逆になって背もたれ先端が連結部と化してしまうという転位であり、連結部は坐部裏側まで貫通し、例の裏側の枠の一部となっている。これは言わば↑として進行するモチーフから↓として逆に進行するモチーフへの変容であると言えなくもない。

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前頁に背もたれ内部に進行する時間経過にはいろいろなバリエーションがあり、そのひとつだけでもディテールまで定義するのは難しいと書いたが、このどのように時間が流れていくかを分析する決して簡単には行かない行為にすでにある特定の背もたれに対する解釈があると思われる。前頁のA、B、Cとは微妙ながらすべて異なったモチーフ同士なのである。2つのモチーフ閣の変容を企図するとき、国1.9の→を↓として変容させるのと、→を逆の←に変容させるのとでは、いささか違ってくるかもしれないという問題はあるものの、時間化の解釈が決定的に異なっているのは意外に本質的なのではないか一一時間進行が違っているからこそメタモルフォーゼの意義が生じるのではないか。背もたれだと、希望を暗示するときには、前頁のCがより適しているかもしれぬ。対し、急降下する絶望への転落はAあるいはCである。第1レベルの希望を感ずる物語では、背もたれが実は坐部に接触している地域にあまり関心を持たない。樹木状に成育するフオルムに意識が集中しているので、現実には存在する連結部も渦巻状フォルムと同等に解釈される。背もたれを坐部裏側の枠として認識するときは、螺旋状の部分が連結部と直結し、上方から下方に向けて直線的に降下するイメージがある。図1.9.1においては連結部のみならず、坐部、及び足も同じように螺旋部分に連動して時聞が流れる。坐部、足が登場するのは螺旋が連結部に接触しているわずかな部分にすぎない。つまり有機的な旋回をする螺旋のほんの部分の存在でしかない。図1.9.2で、完全に坐部等は独立する。この解釈は、かつて(といっても1992-11-1だが)、そこに描いておいた奇型の椅子のイメージに近い。図1.9.1で、坐部も足も螺旋状の部分と一体化しているのに対し、図1.9.2にあって螺旋が転位した枠と坐部が別々のモチーフとなっており、言わば、ひとつのモチーフからふたつのモチーフが分裂する様相を呈しているが、とれには、非論理的な整合性があり、都合よいかもしれない。

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その後をどうするか。背もたれの先端が変容して連結部、さらに坐部裏側の枠に転ずると書いたがこれが行われるのは二重画像である(1)のもう一方の方である。もうひとつの方は左から右に拡張されたままで存在する、ということになっている。変容が行われ、奇怪な外観を露呈するのは、結局、(1)の二重画像の一方であると同時に(2)の二重画像の一枚の方である、と考えることができるか。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 以前描いた図1.12だと、(1)の二重像であるaとbのうち、aを常態とするなら、bの方がb'として(2)のaかbに帰着するということだった。(2)のbに帰着するなら2-bは2-b'であって、常態はあり得ないことになる。しかし2-aは、また3のaかbに変容するために使用されるとするとその常態もあり得ない。(2)は第2楽章にあたる途中の部分だからaもbも非常態として考えてよいものか。
図1.12は正しくないかもしれぬ。(1)においてはaが<向右上…註1>ずとして進行しbは<向左上…註2>として進行する。右側の方に比較的固有の背もたれ部分を伝達可能の範囲で定着できる。(1)の例にならうと(2)のaは<向左下…註3>でありbが<向右下…註4>となる。しかし1のbを(2)のaに帰してもあまり面白い結果にならないのは明らかである。
とはいうものの、ひとつの事象の時間の流れが減速を経て等速に近づくという定理を踏まえるなら、(1)と(2)とでは<…註3>と<…註4>の向きが違っているのだから、<左下…註3>か<左上…註2>が(2)の正規の(?)時間ということになってしまう。
だが、どのように処理したところで、それ相応の錯乱のドラマは生じている、とも考える必要はあるかもしれない。仮に上図のように1と(2)を連繋させるとするなら、(2)の新しいもう一枚の画像は何から開始するのか。1-b'は足+坐部と言わば従属体とする背もたれが成育しながら、逆方向に時間が旋回し、最後の(2)においては、背もたれ(枠)→坐部→足の序列に帰着している。ということは、(2)の新しい画像も枠から始まり→坐部→足へと展開する序列でよいのか。何となくだが、図1.13のように、絶望としての床を奈落に転落するフォルムによって描くとするなら、もう一方で窓へ辿りつく場面を同ーの床の中において実現できそうな気がする。これは先の枠と背もたれという両面性を有す奇怪なフオルムと同一に考慮することができるのではないか。

註1
註2
註3
註4
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ときに、「背もたれー坐部一足jの三位の関係を「窓一床一足」の関係と照応させることは可能だろうか。こうした類推は何でもあり得るのか。


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無理に考えれば、上図の類推が全く考えられないわけではない。しかしそうすると、1-1に書いた如く、複数の要素が結びついて成立している事象がありそれが次の事象へ変転するーーそのとき、実際の変容を企図するのはひとつの要素である一一、またそれが次の事象へと変転していき、最後に円環するという構図によって作業の全体は完結してしまう。単純でわかりやすいが、すべての事象が並列化して羅列されすぎており全体一部分を始めとするもっと錯綜した状態からは遠ざかってしまう。1-9、10あたりで新しく得たかもしれない発想は、第1レベルの要素の構成が、背もたれが主であり坐部+足は従属物である、(あるいは坐部+足は部分として、背もたれの全体に組み込まれている)関係によって成立しているだろうという点である。これが第2へ移行すると、むしろ主は坐部になる。
いくつかの要素によって組織されている対象を観察するとき、そのうちどれかを主として解釈し、他を従属物として解釈する意識のありようは普遍的であろうか。あるいは視界のどこかには参画しているものの、従と呼ぶより完全に主の一部として組み込んでしまう形で他の要素をも抱き込む意識とでもいうのか。それ自体は固有の(もっともそのモチーフの存在性を発揮できる)時間性があるだろうに、背もたれにおける<註5>という時間性の一部分でしかないように舗と足とを1-9の処理によって解釈してしまうことは、むしろ坐部や足とかいう固有の記号性、言語性も看過しているとも言い得よう。 第2レベルにおける対象にあっては、複数の要素はどのような関係にあるのか。第1から第2への推移で、決定的な相違はむろん背もたれが木枠に変化することであるが、このメタモルフォーゼは、あるいは、「詩」において重要なレベル転位の要因となった「○○ゆえに△△△である」式にかなり近い転位となっているかもしれない。面白半分に背もたれを木枠化するのではない。椅子の構造上、実は背もたれは木枠そのものでもあるのである。なぜなら連結部も背もたれの一部と考えれば、連結部は坐部を貫通して坐部裏の木枠の一部となっている。つまり「背もたれのフォルムは空に向かって成育する一ーしかしそれは連結部とつながっている一一連結部の先端は坐部裏側に達し、そこの一帯の寂しい情景の一部の風景なのである」という意識の進行によってはじめの主題をひっくり返すことができる。

<註5>

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背もたれ<註6>の先端が、本来は反対側の連結部と化してしまうという行為性はあるものの。ということは、1においては、別々の素材であった背もたれと連結部が第2において一致して「背もたれ+連結部」となるという変移を考えられよう。第2に登場するのは、その連結部と木枠であり、坐部(裏面)であり足となるが、これらはどのような関係にあると見てよいのか。1の主ー従関係が違う形で成立していると見るのか。それともこれまで何となく考えていた○→○→○的な関係一一特に主・従関係は生まないが木枠から坐部に転じ、最後に足に到達するオーソドックスな(?)時間進行として見てよいのか。またもや本質論だが○→○→○的関係とは終わりの○が主でありはじめの要素○が従である、とはならないのだろうか。第2レベルにおいて、もし主要素を見出すとすれば、おそらく坐部裏面でも足でもない。足は、1-2のところに少し書いたように、椅子を支える非常に重要な要素でありながら、常に他との連帯によって成立するものであり独立できない。足そのものを観察して不安な感情に駆られるのではなく、足と足の間隙からのぞく背景の闇に対して、何らかの感情を惹起するに違いないのである。 坐部でもない。坐部裏面は文字どおり裏面であり、そこに視線をとどめておくのはほんの一瞬でしかない。とはいえ、足が接触する床も、結局はどこかの閣にまぎれこんでしまうのだから第2の主題とは、どこにも焦点を合わせないことの不安と言ってもよいかもしれない。床の登場はいわれがないわけではなく、それら、坐部、枠、足が独立して存在することができないからこそ、背後に登場するのである、あるいは床の登場によって三要素を不安定な状態へと誘う。

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第1レベルの坐部や足は存在しなくとも背もたれは存在し得る。しかし第2の枠、坐部、足は、それぞれが相互に支えあっているので、どの存在も欠かすことができない、という差異は大きいだろう。必然的に処理の仕方も1と2とで、は違ってこなければならない。
第2の三要素がすべて存在しなければならないとすると、第1の坐部、足のように背もたれの時間の一部を賦与されるわけにはいかないので、それぞれの独立した時聞は図1.14の通りであり、これらを順番に展開するしか仕方あるまいか。そもそも相互依存的であり結局、どこにも意識が集中せず、闇へ拡散する事象の決定的な処理なるものがあり得るか。この三つが連続し、最後に床の果てである闇へ到達する、という方法で、不安定な情景を示唆することは可能かもしれない。床というより、パックか。第1では特にパックグラウンドは手がけていない。このパックグラウンドも実はかなり問題で、いかなるモチーフを扱っていても、それが単独に(空中に浮遊するようには)存在しえないことをモチーフが接地する床面や壁面の登場を画策することによって、モチーフそのものの不安定な本質に肉薄できるかもしれないし、通常のCGの如く、パックを単なる図に対する地として処理することほどくだらないことはあるまい。つまり、決して絵画的な意味においてではなく、モチーフとバックとの有機的な連関は深く考察しなければならないのである。簡単に言えば、「単色バック+モチーフ」画像と「サブモチーフバック+メインモチーフ」画像とのどちらかに分類してしまうのではなく、第1レベルが前者なら、第2において後者が登場する、といった構成法を取ることができるかもしれない。もっとも第1の単色パック(これを一体何色にするかもかなり重要な問題である。白一色か、グレイか、黒か。)と、第2のサブモチーフによるパック(床が彼方へ拡るサブモチーフ)との関連がよくわからない。

<註6>

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第2のそれを、床が遠方で消失するグラデーション処理で済ますわけにはいかないだろう。とまれ、第2の要素構成が、パックグラウンド的な床の登場による、不安定性にあるとするなら、第2はどうなるのか。第3にて登場する要素は、床、壁、窓あたりだが1一1に書いた4部構成ではなく、第3ですぐに樹木を描いてよいものか。とくに希望→絶望→希望と交互に主感情を切り換えていく必要はあったのか。もう少し主感情というのか、主調を細分化して、絶望と希望の中聞くらいの主調を掲げてもよいのか。第2の坐部裏面や枠には光があたらず、床の方ばかりに光が射している、としてもよいだろう。光と影は重要なフアクターである。第3におけるイメージは、現在のところ、戸外の光(日の光?)が窓から射し込んできて、それまでの室内の閉錆的な光を消去する情景を想像しやすい。第1では椅子全体に光が当たっている。第2では椅子から光が遠去かり、パックグラウンド、あるいは椅子の環境として床の方に光が当たる。第3では床への光が消去されるが、それは、窓からの外の光によってである。ライティングの操作によって気分の調節は行ないやすい。通俗的ながら同ーモチーフに対して、異なる光を場所を換えて当ててやることによって、レベル変位のためのひとつの方法とすることはできるかもしれない。


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第2では、床が主要素となり、他がサプ要素となっている、と見られなくもない。すると、第3では何が主要素として君臨してくるのか。窓か?。
本当かどうかはわからぬが1-11の冒頭に書いた妄想に近い類推について。
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いっベんに上図の類推をしたらどうか。つまり第2において、枠、坐部、足から床への転落があった。これは視線が下方に移動する意味での転落というより、それまで主要素であったモチーフが従となって床が主として登場する意味での転落であり、椅子など、なかったかもしれない、という悲痛な意識の拡散を指している。そこから、もう一度、過去の椅子を取り戻そうとする。それは明らかに幻想としての椅子であるが、床に接触する壁が足であり、壁の中の格子状にでもなっている窓が坐部であり窓を通して見える樹木が背もたれである。第2が少しずつ転落し、最後、床にて絶望に陥ったのとは対照的に、第3では希望に上昇してゆく高揚感がある。
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2でであったのが、3で上のように、主従関係が転倒する、というふうに単純に転倒させてよいのだろうか。

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思いつき程度の割には先のアナロジーは合理的であると言えなくはない。4本の足は4枚の壁に相応する。本来ゆったりしている坐部と寂しい足との対比は、寂しい壁面と楽しく想像力をめぐらすことのできるメディア、窓との対比につながりそうである。すなわち、壁+窓、樹木は奇型としての椅子にもほかならない。椅子の抑圧が、せめて、奇型としての椅子を愛するようにさしむける、という物語を生む可能性はあるだろう。ただし、そうなると、第3レベルにおける樹木+窓+壁等を、あらかじめ奇型として考えなくてはならない。そもそも奇型とは何だったか。以前は各レベルにおける完成図はそれぞれ奇型として描かれるべきだという考えがあったようだ。しかしその奇型とは、1-9図に描いたように、複数の要素の構成の仕方(主従関係とか)によって生じる奇態であり、とくに異質の事象の影を落としているような(異質の事象との聞の中途半端なメタモルフオーゼによる)奇態ではなかった。メタモルフォーゼそのものは、そのうちのー要素によって行われる、と考えてきた。また、イメージ的に部屋全体のフォルムが椅子化するのは、あまり好ましくないようにも思われる。
ところで、このような論理の構築をやっていても必ずしもつまらないとも言えないのは、少しでも、「夢の論理化」を行う作業に肉薄しているところがあるからだろう。要するにごく簡単にいえば、睡眠中に生起する夢の、あの次々にレベルが転位する事象の変遷が、いかにして(いかなる根拠によって)起こるかを分析する作業に他ならない。夢はまごうかたない論理そのものであって、いかなる荒唐無稽さもあり得ない。コップがキリンになったら、必ずその理由が存在するのである。厄介なことに、その理由がフォルム上の根拠にしかなり得ないという制限つきではあるにせよ、どんなものでも理由は存する。したがってこの作業は「夢分析」である。
再び椅子の問題に戻ると、第2レベルにおける、床を主題化して、椅子の構成素をサブ的な位置に置こうとする意識のありかたは当然あり得るだろう。1-14に書いたように、光は床の方に当たっており、椅子裏側には光がなく陰となっている。その後の第3レベルでは、やはり床は逆にサプ的な位置に転落している。主題化しているのは、床の周辺にあったところの壁であり窓である。 とすると、前頁に書いた図も全面的に間違っていることにはならない。もっとも言語構造図として、主を上に書き、従を下に置く書き方自体が正当かどうかはわからない。しかし、その通りに書くと、左図のように2と3とはつながることになる。ただしこれでは枠=樹木、窓=坐部の類推まで図解したことにはならない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇