1993-0101-0110

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「椅子のある風景」における構造図を再度掲載する。 1 足一坐部一背もたれ 2(足→床)ー坐部ー裏の木枠 3(足→床→窓)ー坐部一木枠 4(足→床→窓)ー窓枠ー外の樹々

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かつて、1希望→2絶望→3希望→4絶望となってうまく円環しないと書いたがこれはさして重要な問題ではないかもしれない。またあるいは、3と4も同じにすることもできないわけではないかもしれない。ともかく、単純化すると、上図のような構図にならざるを得ず、結局、この4っか3つのメタモルフォーゼを順番に行うことをややわかりにくくしようとしているということになりかねない。メタモルフォーゼが作業の中で重要な処理でありおそらくレベルの転図は、例の、「時間の進行が逆になる」ありようとともに、それをもってなされるのは疑いようがない。しかし、かねてから想像しているのは、メタモルフオーゼとして展開するのは扱う対象の中のごく一部であり、例えば図1.1の△+○+□という構成のもとに成立するモチーフが、△+○+□構成モチーフに変化するのは、何となくだが、○→◇だけのメタモルフォーゼによって達せられるのではないか、という思いがあった。

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それが、椅子の例だと、背もたれになるはずであった。しかし、上図のように書くと、1→2→3→4へと、構成要素全体が徐々に変化する状態を図示するようであり、とくに1→2にあって背もたれ→木枠のみならず、足→(足+床)への変化も生じている。はじめから作業の主題を純然たるメタモルフォーゼであるとしたら、事はここまで面倒ではないだろう。単にそのモチーフが複数の構成要素によって編集されているだけであり、一見あまり脈絡のないもの同士のそれが、より奇異なるイメージを提供するだろう、というだけで終わるだろうがらだ。しかし、もちろん、キリンとコップの例を俟つまでもなく、無関係なりに、必然性のある共通基盤によってそれは裏づけられていなければ意味はないが。

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また、足が「足+床」に変容することなどがあり得るのか。12-25に書いたように、足の持つ二つの側面は、一方が背もたれや坐部等の椅子の中でももっとも華やかな要素を支えるための裏方的な側面であるとすれば、他方は、独立しようとしながら視線がすぐに床の彼方へと流れてゆく粛条たる状況となる。足がその存在をかすかに顕示するのは、背もたれを思わせる、やや有機的なフォルムにおいてでしかない。これはよいとしても、それと足と「足+床」とに分けて考えることができるのか。 普通に考えると、裏方的な足なら、足が支える坐部、背もたれの部分を欠かすことはできず、足そのものよりも「表舞台としての坐部、背もたれ+足」となり、それが「足+床」へと移行することを考えるべきではないか。物理的には、他のものを支えていた足が、今度は、下に接触するものを持つ足へと変化しており、常に他のものとの関係によってしか存在し得ない足の、相手とするところのものが上から下に移動した、と捉えることもできないわけではない。 図1.2


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もし「足」→「足+床」への変容を企図するなら、ちょうど、○が○+△へと変化するプロセスを実現しなければならないことになるから、難しい。あるいははじめの○の中に後半の○+△の△に相当する部分を無理にでも見つけなければならないということになる。 図1.3 複数の構成素のうち、主題となるのは、背もたれであるのは言うまでもないが、先の1→4の図だと、背もたれのみならず足の部分も変容している、ということだった。しかし実際の処理法においては、例の変形をするのは背もたれのみであり「足+床」は、足から変形して新たなフォルムを形成するのではなく、二重画像的に別の場所に離れて存在するにすぎない。これは意外と本質的な処理なのではないか。図1.4の図で言えば、○→◇は変形をされ、△→<?>というメタモルフォーゼがあるから<?>の方は、ムから徐々に生じるのではなく、それ自体独立して存在させるのである。また1と2の閣で、背もたれのみならず、足も別のそチーフに変化するとしても、足から「足+床Jへという特殊性はあっても、各要素の変化自体はとくに稀少な事態ではない。第一、1と2とでは視点や視線のデータが全く異なっているはずだからである(1は上から見下ろす視線であるのに対して、2は下から見上げるアングルとなっている)。 つまりレベルの転換は、○○○ゆえに△△△なのだという驚異をともなって起こる。かつて思いあぐねた「ふと気がつくとすべてが一変している」事態に他ならす、背もたれゆえに、足も1の足ではなく2の足+床だったのだ、という意識のもとに革命が行われる。そのとき、例の変形手法によって奇怪な相貌を刻印されるのは、背凭れだけでよく、足に対してそれを行う必要はない。背もたれというレベル転換の要因となる要素以外は二重画像そのままでよいのではないか。


●そうなると、第2レベル以降は、必ずしも背もたれが、また新たなるレベル転換の要因となる必要はないのかもしれない。「部屋」でお皿が主題となっていることは改めて強調するまでもないが、そのお血が要因となって次々に新しい物語が生成しているわけではない。いや、お皿ははじめと終わりにしか登場しない。最初こそ、腰昧な記憶を頼りにいろいろな訂正がされるもののすぐに否定され、そのまま最後まで出てこない。物語を語る上で必要となるモチーフ要素を、○○○ゆえに、と、レベル転換のための要因となる要素と、その結果、△△△であると肯定や否定をされる要素とに分けるとしても、お血は後者の方であり、なお最初と最後しか出てこないのである。お皿のはじめの否定はお皿が乗っていたテーブルの存在によって行われる。そこでお皿は消去され、第2レベル以降の物語にはもっと別の要素に関する訂正が行われている。

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●部分=ディテールの拡大によって全体が否定される、と考えるのなら、今書いたレベル転換の要因となるものが部分であり、お皿に相当するのが全体である。そうすると、最終的に取り沙汰されるのが背もたれであるなら(それがお皿にあたるのなら)、背もたれをレベル転換要因とするのはおかしいのではないか。第一、背もたれそのものは希望を喚起する素材であり、いくらそれ自体を観察していても、そこから坐部裏側の木枠を連想するのは難しいと言わねばならぬ。背もたれは、何によって坐部裏側木枠に変化したのか。背もたれ自体を変化して木枠化することを考えていたがこれは間違っているとも考えられる。
●それとも問題を逆にして、背もたれゆえに足は「足+床」であり、坐部は裏側から見た坐部である、と考えてみる。背もたれそのものは確かに希望をしか暗示しない。しかしそれが坐部の端に接触している一一坐部の今にも床に落ちそうな危うい場所から発生しているのも事実であり、空中に浮遊している唐草模様である渦巻き状を見ているだけなら希望であっても、坐部の上に成立しているその接触地点を見ると必ずしも希望ではなく、むしろ不安な感情を暗示しているとも考えられよう。一ーやはり、第2レベルの登場は、大きく視点の位置が移動した結果の坐部裏側がかもす印象に大きく負うのではないか。

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しかしそうなると背もたれをいきなり坐部裏木枠化するのはかなり問題があることになる。もし、そこで、すぐに木枠化するのなら、背もたれは実は木枠であった、それゆえに坐部は裏側であり、足は足+床であったという物語に改めなければならない。つまり背もたれの木枠化は結果ではなく、別なる結果の要因でしかない。

●実は、背もたれから坐部裏側に至るプロセスがあまりはっきりしない。背もたれと坐部接触部に何らかの寂寞を覚える、というのは現実にそうした実感を覚えたというより、むしろ頭でひねり出した根拠と言うに近い。したがって一体何を理由に寂しさの境遇に転落するかが明確ではないのである。ただ、かすかだが、接触部の、ぞれも裏側の地域には、やはり、あるわびしさを覚える(図1.6)。

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部屋の綱の壁と床の境界に感ずるあの不安定な地帯、必ずほこりがたまっており、普段顧みられることもない中途半端な場所であるという記号性は顕著だろう。それから今、椅子を見て発見したそれから、虚心に観察すれば、椅子をひっくり返して裏側を見てやっても意外にそこは暖かいイメージがある。木枠と書いてきたものの、四辺を形成する無表情な枠ではなく、一部は今述べた背もたれの先端部であり、一部には背もたれ的な装飾が施しである。想像で描いてきた寂しさしか、絶望に陥らせるような拒絶感はあまりないと言ってよい。(もっともこんなことはある程度は創作してもかまうまい)。また別の物語が発生する予感もないわけではないが、背もたれ自体に陽が当たってキラキラと煙く希望の光を感ずるのはよいとしても、一面でトーテム・ポールを連想させるやや鈍重で土俗的な重苦しさを感ずるのも事実である。陽だまりの中で輝くそれは木材より鉄製の質感を持ち、金属の反射によって光っているイメージが強い。木材は暖かみと同時に鈍重さの中の暗さを併せ持っていると見るべきだろう。

●ちなみに背もたれを実際のモチーフとなっている椅子から正確に描くと下図のようになる。左右対称の構図である。

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これをそのまま普通のCGなみにモデリングするのもかなり厄介在だが別のモチーフへの変容のために、ある一定の序列化を行うのも随分面倒な作業だろう。背もたれを下から上に延長する時間性を持つものと考え、言わばひと筆描きで描画できるように整理してみると、図の開始点にあたるところから発生し始め、連続して最後は終了点のところに達する。渦巻き、あるいは樹木状の対象を処理するとき、根の部分からそれが発生するのはよいとしても、枝別れしていく枝の部分をどのように時開化するかが問題となる。たとえばAは、3本の枝によって樹木が構成されていると考えるなら、(5)の位置で(1)と(2)の2本に分岐しながら、(1)の最後と(2)の最後は同じである。

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しかし(2)は途中で(3)をも分岐させるが、(3)の最後も同じである。Bは、枝単位に描画が行なわれる。Cは、枝(1)と枝(2)が分岐しながら枝(2)の成長途中で(1)は終了してしまう。

 

あたりまえのことだが、このように表面的には同じ形態ながら、決してアニメーションを目論むのでもないながら、時間の組織のさまざまなバリエーションが得られる。また、前頁の背もたれの開始点としているところは、坐部自体には接触しておらず、背もたれ全体を支える部分が、下にあり、それが坐部と背もたれをつなくげているのも注意すべき事態かもしれない。その部分を何と呼ぶのかは不明だが、坐部ー背もたれ連結部とでも言うなら、厳密に言うと背もたれと連結部とは別のモチーフなのである。一般の椅子も正確にはこうなっているのだろうか。今の幻想は、背もたれが成育しながら渦巻き状のフォルムを描きつつも、最後にそれが表情を変えて先端が急に降下し、連結部化して坐部に突き刺さる、という物語だ。つまり、本来なら背もたれは連結部から発生しているのに、それが逆になって背もたれ先端が連結部と化してしまうという転位であり、連結部は坐部裏側まで貫通し、例の裏側の枠の一部となっている。これは言わば↑として進行するモチーフから↓として逆に進行するモチーフへの変容であると言えなくもない。

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前頁に背もたれ内部に進行する時間経過にはいろいろなバリエーションがあり、そのひとつだけでもディテールまで定義するのは難しいと書いたが、このどのように時間が流れていくかを分析する決して簡単には行かない行為にすでにある特定の背もたれに対する解釈があると思われる。前頁のA、B、Cとは微妙ながらすべて異なったモチーフ同士なのである。2つのモチーフ閣の変容を企図するとき、国1.9の→を↓として変容させるのと、→を逆の←に変容させるのとでは、いささか違ってくるかもしれないという問題はあるものの、時間化の解釈が決定的に異なっているのは意外に本質的なのではないか一一時間進行が違っているからこそメタモルフォーゼの意義が生じるのではないか。背もたれだと、希望を暗示するときには、前頁のCがより適しているかもしれぬ。対し、急降下する絶望への転落はAあるいはCである。第1レベルの希望を感ずる物語では、背もたれが実は坐部に接触している地域にあまり関心を持たない。樹木状に成育するフオルムに意識が集中しているので、現実には存在する連結部も渦巻状フォルムと同等に解釈される。背もたれを坐部裏側の枠として認識するときは、螺旋状の部分が連結部と直結し、上方から下方に向けて直線的に降下するイメージがある。図1.9.1においては連結部のみならず、坐部、及び足も同じように螺旋部分に連動して時聞が流れる。坐部、足が登場するのは螺旋が連結部に接触しているわずかな部分にすぎない。つまり有機的な旋回をする螺旋のほんの部分の存在でしかない。図1.9.2で、完全に坐部等は独立する。この解釈は、かつて(といっても1992-11-1だが)、そこに描いておいた奇型の椅子のイメージに近い。図1.9.1で、坐部も足も螺旋状の部分と一体化しているのに対し、図1.9.2にあって螺旋が転位した枠と坐部が別々のモチーフとなっており、言わば、ひとつのモチーフからふたつのモチーフが分裂する様相を呈しているが、とれには、非論理的な整合性があり、都合よいかもしれない。

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その後をどうするか。背もたれの先端が変容して連結部、さらに坐部裏側の枠に転ずると書いたがこれが行われるのは二重画像である(1)のもう一方の方である。もうひとつの方は左から右に拡張されたままで存在する、ということになっている。変容が行われ、奇怪な外観を露呈するのは、結局、(1)の二重画像の一方であると同時に(2)の二重画像の一枚の方である、と考えることができるか。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 以前描いた図1.12だと、(1)の二重像であるaとbのうち、aを常態とするなら、bの方がb'として(2)のaかbに帰着するということだった。(2)のbに帰着するなら2-bは2-b'であって、常態はあり得ないことになる。しかし2-aは、また3のaかbに変容するために使用されるとするとその常態もあり得ない。(2)は第2楽章にあたる途中の部分だからaもbも非常態として考えてよいものか。
図1.12は正しくないかもしれぬ。(1)においてはaが<向右上…註1>ずとして進行しbは<向左上…註2>として進行する。右側の方に比較的固有の背もたれ部分を伝達可能の範囲で定着できる。(1)の例にならうと(2)のaは<向左下…註3>でありbが<向右下…註4>となる。しかし1のbを(2)のaに帰してもあまり面白い結果にならないのは明らかである。
とはいうものの、ひとつの事象の時間の流れが減速を経て等速に近づくという定理を踏まえるなら、(1)と(2)とでは<…註3>と<…註4>の向きが違っているのだから、<左下…註3>か<左上…註2>が(2)の正規の(?)時間ということになってしまう。
だが、どのように処理したところで、それ相応の錯乱のドラマは生じている、とも考える必要はあるかもしれない。仮に上図のように1と(2)を連繋させるとするなら、(2)の新しいもう一枚の画像は何から開始するのか。1-b'は足+坐部と言わば従属体とする背もたれが成育しながら、逆方向に時間が旋回し、最後の(2)においては、背もたれ(枠)→坐部→足の序列に帰着している。ということは、(2)の新しい画像も枠から始まり→坐部→足へと展開する序列でよいのか。何となくだが、図1.13のように、絶望としての床を奈落に転落するフォルムによって描くとするなら、もう一方で窓へ辿りつく場面を同ーの床の中において実現できそうな気がする。これは先の枠と背もたれという両面性を有す奇怪なフオルムと同一に考慮することができるのではないか。

註1
註2
註3
註4
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ときに、「背もたれー坐部一足jの三位の関係を「窓一床一足」の関係と照応させることは可能だろうか。こうした類推は何でもあり得るのか。


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無理に考えれば、上図の類推が全く考えられないわけではない。しかしそうすると、1-1に書いた如く、複数の要素が結びついて成立している事象がありそれが次の事象へ変転するーーそのとき、実際の変容を企図するのはひとつの要素である一一、またそれが次の事象へと変転していき、最後に円環するという構図によって作業の全体は完結してしまう。単純でわかりやすいが、すべての事象が並列化して羅列されすぎており全体一部分を始めとするもっと錯綜した状態からは遠ざかってしまう。1-9、10あたりで新しく得たかもしれない発想は、第1レベルの要素の構成が、背もたれが主であり坐部+足は従属物である、(あるいは坐部+足は部分として、背もたれの全体に組み込まれている)関係によって成立しているだろうという点である。これが第2へ移行すると、むしろ主は坐部になる。
いくつかの要素によって組織されている対象を観察するとき、そのうちどれかを主として解釈し、他を従属物として解釈する意識のありようは普遍的であろうか。あるいは視界のどこかには参画しているものの、従と呼ぶより完全に主の一部として組み込んでしまう形で他の要素をも抱き込む意識とでもいうのか。それ自体は固有の(もっともそのモチーフの存在性を発揮できる)時間性があるだろうに、背もたれにおける<註5>という時間性の一部分でしかないように舗と足とを1-9の処理によって解釈してしまうことは、むしろ坐部や足とかいう固有の記号性、言語性も看過しているとも言い得よう。 第2レベルにおける対象にあっては、複数の要素はどのような関係にあるのか。第1から第2への推移で、決定的な相違はむろん背もたれが木枠に変化することであるが、このメタモルフォーゼは、あるいは、「詩」において重要なレベル転位の要因となった「○○ゆえに△△△である」式にかなり近い転位となっているかもしれない。面白半分に背もたれを木枠化するのではない。椅子の構造上、実は背もたれは木枠そのものでもあるのである。なぜなら連結部も背もたれの一部と考えれば、連結部は坐部を貫通して坐部裏の木枠の一部となっている。つまり「背もたれのフォルムは空に向かって成育する一ーしかしそれは連結部とつながっている一一連結部の先端は坐部裏側に達し、そこの一帯の寂しい情景の一部の風景なのである」という意識の進行によってはじめの主題をひっくり返すことができる。

<註5>

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背もたれ<註6>の先端が、本来は反対側の連結部と化してしまうという行為性はあるものの。ということは、1においては、別々の素材であった背もたれと連結部が第2において一致して「背もたれ+連結部」となるという変移を考えられよう。第2に登場するのは、その連結部と木枠であり、坐部(裏面)であり足となるが、これらはどのような関係にあると見てよいのか。1の主ー従関係が違う形で成立していると見るのか。それともこれまで何となく考えていた○→○→○的な関係一一特に主・従関係は生まないが木枠から坐部に転じ、最後に足に到達するオーソドックスな(?)時間進行として見てよいのか。またもや本質論だが○→○→○的関係とは終わりの○が主でありはじめの要素○が従である、とはならないのだろうか。第2レベルにおいて、もし主要素を見出すとすれば、おそらく坐部裏面でも足でもない。足は、1-2のところに少し書いたように、椅子を支える非常に重要な要素でありながら、常に他との連帯によって成立するものであり独立できない。足そのものを観察して不安な感情に駆られるのではなく、足と足の間隙からのぞく背景の闇に対して、何らかの感情を惹起するに違いないのである。 坐部でもない。坐部裏面は文字どおり裏面であり、そこに視線をとどめておくのはほんの一瞬でしかない。とはいえ、足が接触する床も、結局はどこかの閣にまぎれこんでしまうのだから第2の主題とは、どこにも焦点を合わせないことの不安と言ってもよいかもしれない。床の登場はいわれがないわけではなく、それら、坐部、枠、足が独立して存在することができないからこそ、背後に登場するのである、あるいは床の登場によって三要素を不安定な状態へと誘う。

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第1レベルの坐部や足は存在しなくとも背もたれは存在し得る。しかし第2の枠、坐部、足は、それぞれが相互に支えあっているので、どの存在も欠かすことができない、という差異は大きいだろう。必然的に処理の仕方も1と2とで、は違ってこなければならない。
第2の三要素がすべて存在しなければならないとすると、第1の坐部、足のように背もたれの時間の一部を賦与されるわけにはいかないので、それぞれの独立した時聞は図1.14の通りであり、これらを順番に展開するしか仕方あるまいか。そもそも相互依存的であり結局、どこにも意識が集中せず、闇へ拡散する事象の決定的な処理なるものがあり得るか。この三つが連続し、最後に床の果てである闇へ到達する、という方法で、不安定な情景を示唆することは可能かもしれない。床というより、パックか。第1では特にパックグラウンドは手がけていない。このパックグラウンドも実はかなり問題で、いかなるモチーフを扱っていても、それが単独に(空中に浮遊するようには)存在しえないことをモチーフが接地する床面や壁面の登場を画策することによって、モチーフそのものの不安定な本質に肉薄できるかもしれないし、通常のCGの如く、パックを単なる図に対する地として処理することほどくだらないことはあるまい。つまり、決して絵画的な意味においてではなく、モチーフとバックとの有機的な連関は深く考察しなければならないのである。簡単に言えば、「単色バック+モチーフ」画像と「サブモチーフバック+メインモチーフ」画像とのどちらかに分類してしまうのではなく、第1レベルが前者なら、第2において後者が登場する、といった構成法を取ることができるかもしれない。もっとも第1の単色パック(これを一体何色にするかもかなり重要な問題である。白一色か、グレイか、黒か。)と、第2のサブモチーフによるパック(床が彼方へ拡るサブモチーフ)との関連がよくわからない。

<註6>

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第2のそれを、床が遠方で消失するグラデーション処理で済ますわけにはいかないだろう。とまれ、第2の要素構成が、パックグラウンド的な床の登場による、不安定性にあるとするなら、第2はどうなるのか。第3にて登場する要素は、床、壁、窓あたりだが1一1に書いた4部構成ではなく、第3ですぐに樹木を描いてよいものか。とくに希望→絶望→希望と交互に主感情を切り換えていく必要はあったのか。もう少し主感情というのか、主調を細分化して、絶望と希望の中聞くらいの主調を掲げてもよいのか。第2の坐部裏面や枠には光があたらず、床の方ばかりに光が射している、としてもよいだろう。光と影は重要なフアクターである。第3におけるイメージは、現在のところ、戸外の光(日の光?)が窓から射し込んできて、それまでの室内の閉錆的な光を消去する情景を想像しやすい。第1では椅子全体に光が当たっている。第2では椅子から光が遠去かり、パックグラウンド、あるいは椅子の環境として床の方に光が当たる。第3では床への光が消去されるが、それは、窓からの外の光によってである。ライティングの操作によって気分の調節は行ないやすい。通俗的ながら同ーモチーフに対して、異なる光を場所を換えて当ててやることによって、レベル変位のためのひとつの方法とすることはできるかもしれない。


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第2では、床が主要素となり、他がサプ要素となっている、と見られなくもない。すると、第3では何が主要素として君臨してくるのか。窓か?。
本当かどうかはわからぬが1-11の冒頭に書いた妄想に近い類推について。
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いっベんに上図の類推をしたらどうか。つまり第2において、枠、坐部、足から床への転落があった。これは視線が下方に移動する意味での転落というより、それまで主要素であったモチーフが従となって床が主として登場する意味での転落であり、椅子など、なかったかもしれない、という悲痛な意識の拡散を指している。そこから、もう一度、過去の椅子を取り戻そうとする。それは明らかに幻想としての椅子であるが、床に接触する壁が足であり、壁の中の格子状にでもなっている窓が坐部であり窓を通して見える樹木が背もたれである。第2が少しずつ転落し、最後、床にて絶望に陥ったのとは対照的に、第3では希望に上昇してゆく高揚感がある。
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2でであったのが、3で上のように、主従関係が転倒する、というふうに単純に転倒させてよいのだろうか。

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思いつき程度の割には先のアナロジーは合理的であると言えなくはない。4本の足は4枚の壁に相応する。本来ゆったりしている坐部と寂しい足との対比は、寂しい壁面と楽しく想像力をめぐらすことのできるメディア、窓との対比につながりそうである。すなわち、壁+窓、樹木は奇型としての椅子にもほかならない。椅子の抑圧が、せめて、奇型としての椅子を愛するようにさしむける、という物語を生む可能性はあるだろう。ただし、そうなると、第3レベルにおける樹木+窓+壁等を、あらかじめ奇型として考えなくてはならない。そもそも奇型とは何だったか。以前は各レベルにおける完成図はそれぞれ奇型として描かれるべきだという考えがあったようだ。しかしその奇型とは、1-9図に描いたように、複数の要素の構成の仕方(主従関係とか)によって生じる奇態であり、とくに異質の事象の影を落としているような(異質の事象との聞の中途半端なメタモルフオーゼによる)奇態ではなかった。メタモルフォーゼそのものは、そのうちのー要素によって行われる、と考えてきた。また、イメージ的に部屋全体のフォルムが椅子化するのは、あまり好ましくないようにも思われる。
ところで、このような論理の構築をやっていても必ずしもつまらないとも言えないのは、少しでも、「夢の論理化」を行う作業に肉薄しているところがあるからだろう。要するにごく簡単にいえば、睡眠中に生起する夢の、あの次々にレベルが転位する事象の変遷が、いかにして(いかなる根拠によって)起こるかを分析する作業に他ならない。夢はまごうかたない論理そのものであって、いかなる荒唐無稽さもあり得ない。コップがキリンになったら、必ずその理由が存在するのである。厄介なことに、その理由がフォルム上の根拠にしかなり得ないという制限つきではあるにせよ、どんなものでも理由は存する。したがってこの作業は「夢分析」である。
再び椅子の問題に戻ると、第2レベルにおける、床を主題化して、椅子の構成素をサブ的な位置に置こうとする意識のありかたは当然あり得るだろう。1-14に書いたように、光は床の方に当たっており、椅子裏側には光がなく陰となっている。その後の第3レベルでは、やはり床は逆にサプ的な位置に転落している。主題化しているのは、床の周辺にあったところの壁であり窓である。 とすると、前頁に書いた図も全面的に間違っていることにはならない。もっとも言語構造図として、主を上に書き、従を下に置く書き方自体が正当かどうかはわからない。しかし、その通りに書くと、左図のように2と3とはつながることになる。ただしこれでは枠=樹木、窓=坐部の類推まで図解したことにはならない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇