『部屋へ』1993-0111-0120

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整理すると、レベルの相違である第1、2、3のそれぞれの事象がある。事象複数の要素が組織化されて成立しており、1-2-3の各要素は、「背もたれ=枠=樹木」とか「坐部表側=坐部裏側=窓」と対応し合っているということが条件だろうか。しかし第1にはなく第2で登場する床なるモチーフもある。また対応し合っていても組織のされ方がレベルによって異なっている。主従関係等がそれである。実際のメタモルフォーゼはひとつの要素においてのみ行なわれ、残りは二重画像である。一一こんなことでよいのだろうか。前頁に書いたように、枠+坐部+足と壁+窓+樹木との類推は半ばこじつけに近く、壁から窓、窓から戸外へ至る意識のプロセスは、希望へ至る道であり光に反応する、という意味でははじめの第1の椅子に似ているけれど、フォルム上の共通性を得ているわけではない。
たとえば、樹木をやめて壁が足なら、天上を坐部とし天窓における唐草模様を背もたれ(枠)とするのはどうだろう(図1.17)。樹木?云々よりまだそれほど無理がないように思われる。

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————————————————————————12 しかし物語は部屋内部で完結するので意外性はない。(第1の意識プロセスは、近いうちに2に転落する運命にあるので、むしろ下降気味だが、3はやはり少しずつ上昇する気運にあって(?)4とは逆のような気もする)

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図1.18にここ数日間で得たかもしれない構造図をまとめてみた。図中の樹木的構造を形成しているのが、例の主従関係である。しかし、レベル1から3まで下から上に向かっているところなどから主従関係はつかみにくい。一一→で示したのが、直接メタモルフォーゼするわけではなく、二重画像にとどまるものの、変容する要素同士の関係となるが、この関係そのものを画像処理的に行なうわけではないので、2と3の類推を、想像力によるそれにとどめておくのか、それともそれ以上の作業を要するのか。レベル1〜3の独立した画像を準備としてはじめから描かれなければならないとするなら、例の奇型はどうしたらよいか。レベル1は1-9の図に描いた如く、坐部+足は、背もたれの一部、従属物として処理されるはずだが、何となくフォルム自体も背もたれの性質を帯びなければ意味がないようにも思われる。これはほぼ奇型である。奇型とは、当のモチーフの一部の性質、要素が失われ、同時に他の無関係のモチーフの一部を得ている状態のことであり、むろん、2つのモチーフのある意味での共通項を得ている状態でもあり得る。かといって、全面的に他モチーフヘ移行するのではなく、過去の残滓をを引きずっており中途半端な状態にある。また、足+坐部の中に流れる時間の解釈の違いと、フォルム自体の違いとは、別々の問題となるのだろうか。時間解釈とは、足+坐部を形成する時間(=ポリゴン序列)を背もたれ的に流れるだろうと見ることであり、そのことと、足+坐部のフォルムを変形して崎型化することとは別々の問題になるのか。円柱形を回転体(rathe)と見るか掃引体(extlude)と見るかの違いによってフォルムそのものの相違いが出るわけで、はない(図1.19)一一いや、時間は常に左から右に拡張されるので、その意味では画像結果は異なってくるものの、原形自体には変化はないはずである。

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坐部+足は面積的に背もたれより小さいというイメージがあるがこれも意識的な操作がなければそうはならない。 背もたれの方を観察するとそのフォルムの複雑さにまず戸惑わざるを得ない。前頁の図では背もたれという一字ですましているが、実際は樹木状のフオルムは随分入り組んでいると見なければならない。少なくともCG化するときには、ある一定の規則によって全体を統ーする必要があり、この分析はモデリングにかかる労力も合めると相当時間がかかりそうである。したがってそのあたりは十分に複雑な言語構造になり得る。あるいはそうしなければCG化することの意義がない(言語ですんでしまうだろう)。しかし背もたれ観察時に坐部や足は従属物であり、こちらの複雑さは意識化していない。よって言語構造的には単純であってよいはずである。(だが、また別の言い方をすれば、一見複雑な背もたれを分析することは、一定のシステムによって組織化されている状況を看取する行為だから、単純化の試みでもある)
先に、背もたれの樹木状の構造はそのまま明確な言語構造図として描写されなければ意味がない、と書いた。しかし、そこまで言葉に換言できるだろうか。図1.19に背もたれの図を載せておく。これをひと筆書きで描けば、1-7に書いたような開始点で終了点は定まる。しかし、これを背もたれに対する一定の解釈にすぎない。結局、背もたれや他の要素をどのように解釈するか、は、そこにいかなる時閣の序列が継起するかを考えることである。したがってそれを言語構造的に解明することも、時間序列を明らかにすることとつながっていよう。開始点からはじまる線の分岐を単純に描くと1で一度分岐した二本の線がまた2で分岐しているので、国1.20のような樹木状をつくっていると考えられる(ただし、これはもちろん背もたれの右側の部分だけを扱っている)。


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これを樹木状の構造だけを抽出しただけで、線が渦巻き状を描いているところなどは考慮していないが、もちろんこれも扱わなければ意味がないだろう(あまり忠実にやりすぎるとれ左に書いている言語構造図が上の絵そのままになってしまう予感がある)。


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ところで、線の長さを考え、図1.21の上から下に向かつて時間が経過するとするなら、上図のようになるだろうか。1の分岐点の一方はごく短く終わるがもう一方はかなり長いからである。少し実際の絵の方に近づいている。また、上の絵に示したaとbとのパートにまず二分すると見るなら図1.22のようになり、先端がひとつの分岐だけを行うパートがふたつならぶことになる。もっともこれもaが全部終了してからbが始まると考えるなら、図1.23とでもなるのか。あるいは、図1.24のようにか。


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ともあれ、これらの時間化をアニメーションで描いてみることは簡単である。もっとも樹木らしい成育は、図1.22である。また、こうした分岐などが一切発生していないという解釈も当然あり得るだろう。たとえば図1.25は、渦巻き状のフォルムすら考慮しない場合で、背もたれ最上部(最下部)から最下部(最上部)に直線的に時間が流れると見ている。ある程度渦巻きフォルムを計算に入れて分岐なしに解釈する一例に左下図などがあるかもしれない。背もたれは比較的直裁的にそのフォルム自体が樹木状を形成しているが、他のいろいろなモチーフにおいてもこうした樹木状をもっているだろうし、またそれを直線的に解釈することや、もっと別の分岐をすると、いろいろに解釈することはできるだろう。 ————————————————————————14

おそらく第1レベルで得る背もたれの時間とは前頁末尾に載せた樹木状に分岐する時間であり第2レベルで、得る背もたれ=連結部の時間とは上に掲げた直線状のフォルムではないか。しかも、第2のそれは上から下に延びる時間であり方向が第1とは別になるのではないか。 さらに1-17に書いた問題を考えなければならない。第1における坐部+足をどう扱うか、時間の序列はある程度見当がつくにしてもフォルムをどうするか。フォルムはやはり変形して奇型としなければならない。しかし、そのとき、何らかの要素を捨てて何かの要素を与えることになるが、この根拠をどうしたらよいだろう。(ちなみに、本とそれが入っている本箱を見るとき、本を意識化するときは本箱は従属体であり逆だとそれも逆となる。何となくどちらも同時に得ることかもあるかもしれないが、その本+本箱は別のモチーフとなっていると考えよう。つまり、背もたれを意識化するときは坐部+足は背もたれの一部にすぎず、それはもはや坐部、足の本来の機能すら喪失しているのである。一一つまり、あたりまえのことのようだが本を意識するときは、本箱は意識されていない)。 イメージ的には坐部と足は図1.27のような変形を受けるような気がする。これはむろん接続する背もたれの螺旋的な線のフォルムを受け継いでいる。ただし、このことは、ただちに、左下図のように、連結部と坐部は左から右に向かつて直線的に、足にあっては上から下に向かつて直線的に時間が流れるものとみなしていることにつながらないか。しかも赤線で示した3本の線(時間)は同時に始まり、終了する。そしてそれぞれの→が接続する上の背もたれのJ"的属性を帯びている。

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第1の坐部や足が、背もたれのごく一部にすぎないとするなら、それは他の枝と同じく幹から分岐した枝のひとつであるとみなすこともできないわけではないかもしれない。
また大きさも変えなければならない。背もたれの開始時は視点が椅子よりかなり遠去かっているので、背もたれ開始からすぐに登場するにすぎない坐部、足も必然的に小さく処理されることになろうが一見、背もたれの分岐した枝のように見えてよく見ると坐部、足だった、というまさに崎型を見るときの状態は保持したい。ところで、幹、枝と書いたが、背もたれという樹木のどこを幹と言い、どこを枝とするのか。図1.29.Aのように開始から終了までの1本を幹として残りを枝とするか、あるいは図1.29.Bの幹は途中までで残りをすべて枝と見るか、いろいろな見方はあるだろう。


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つまり、もし、坐部+足を樹木の枝とみなすのなら、よくわからぬが、背もたれ部分における幹に対する枝の関係、をそのまま、背もたれに対する坐部+足関係に加えてしまえばよいのではないか。一般的にそうした操作があり得るだろうか。これを抽象化するとA(背もたれ)がありAはAl—A2(幹—枝)によって構成されており、またB(坐部+足)という事実がある。Aに対してBは当然ある関係を持っている。またAlに対してA2もひとつの固有の関係を持っている。このA1に対するA2関係をAに対するB関係に加えてしまう、ということである。あるいはまた、A-B関係以外にC-D関係がありC-DにA-Bを加えてしまう、という事態が存在するかどうか。A1-A2関係をA-Bに加える、というのはさして斬新な操作ではないかもしれない。すなわち、A1-A2を構成する要素をひとつ抽出し、それをA-Bに挿入するだけのことである。
前頁末尾に書いた図をもう少し柔軟に書くと、幹一枝の関係は相対的に決まるだろう。図の黒に対して赤は枝になる。とすると、幹に対する枝の関係一一要するに、幹と枝とを隔てる項目は、幹に対して枝は極端に小さい(短い)、また成育の方向が逆になる、当然の如く、枝は幹から分岐する、第2が挙げられるだろう。

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そうすると、図1.28の坐部、連結部はむしろ、幹と一体化しており、足だけが枝化している。足は、方向が逆になり図1.31.1のように曲がるだろう。また、坐部、連結部も足とともに枝化させるのなら図1.31.2のような処理にならざるを得ない。

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しかし、先に書いたAを構成するところのA1-A2関係をA-Bの関係に加えてしまう、という操作はここだけの特殊な操作にとどまるのか、それとももっと本質的な内容を含んでおり、今後の第2、3レベルにも同じことをやるべきなのか。いや、しかし、元々はAとB(背もたれ、坐部+足)とが2つの主題となり得る独立性を持ち得るモチーフなのに、BをAのたかだか部分であるとしてみなせないのなら、それは、同時にBをAlに対するA2としてしか見ていないことのあらわれではないのか。
坐部、連結部が幹の一部であり、足が幹から派生するひとつの枝にすぎないとすると、図1.32のような言語構造図を書けるかもしれない。(もっとも言語による図が、あたかも絵そのままのようにしか書けないのは問題かもしれない)絵そのものに近似させて、「坐部+連結部」を幹の一部、「足」をいくつかあるうちのひとつの枝、とするより、ここは文字通り、それらを幹であり、枝であると断定しでもよいかもしれない。どのような言語図を描いたらよいか。図1.33のようにか。

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第2レベルの時間推移は前頁に書いたように逆に上方から下方に分岐なし(幹一枝の区別なく)に行われるとする。ここは、やはり第1に得た時間が徐々に第2の逆方向の時間へ変容させる、と考えてよいか。二重画像の処理を用いれば、第1の最期もしっかり描くことができる。第2において今度は右から左に拡張する図が変容して上方から下方に至る時間へと変化する。今度は、背もたれを直線的に解しつつ、続けて連結部へと達する。連結部は背もたれ内の幹の途中経過的な存在ではなく、背もたれの先端となっているのである。

同一モチーフにおいて異質の時間継起を見出すことは、それほど多くのバリエーションを挙げられないにせよ、比較的簡単である。それを幾何学的に分析したとき、見出すのはごくわずかである。 モチーフを、形態論的に把握することは幾何学的認識と同義だろうか。時間継起の共通項に「連続」がある。およそ非連続なものは、一定の規律にしたがった時間とはみなされない。円柱形なら、ほとんど回転体と見るか掃引体と見るかの時間以外にはないように思われるが、この幾何学化以外の時間発生があり得るか。無機質な円柱ではなく何らかの修飾を施した円柱ならもっと他の時間が考えられるのか。ともあれ、同一モチーフ内の時間をいくつか挙げることは簡単だし、2種類のA、Bという時間の間にA→Bとするメタモルフォーゼを企画することもいくつかの方法論によって可能だろう。しかし、椅子の場合は、複数要素によって構成されておりなおかつ椅子以外のもの一床という存在も巻き込んでくる運動を有していて完結していない。背もたれが坐部+足を枝としながら成育する時間は明快だが、その次の時間がややわかりにくい。上から下へと連結部をたずさえて直進し、それが坐部を貫通し裏側に達する、ととろまではよいが、残りの坐部や足はどうなるのか。 第2レベルのテーマとなるのは、椅子の裏側ばかりが、前面に顕著であり、光が当たっていない暗さがそれを象徴しているが、ここからすぐに形態論が出てこない。せいぜい視点の変化ぐらいである。第2における時閣の推移は、これまでの適当な判断によれば、裏の木枠(背もたれ先端)→裏坐部→足→床というように、連続的に変化するだろうとしていた。第1は背もたれを主語として述語的な坐部、足を収飲していたが、第2ではどれが主語になるのかは意外とわかりにくい。あえていえば、パックか、床になるのだろうか。ややそれだと性急な感じがするし、また第1にはなかったパック(床)が登場してくる中途半端さが気になる。ましてパックが主語だと、第2のモチーフは椅子ではなくなってしまうということになりかねない。もっともたとえば坐部を主語にしたりすると、当然*矢印挿入*的な時間を描いてそれは生成するだろうから、背もたれを今度はその一部として扱う必要があるので、先の背もたれを上から下へ直線的に解釈しようとする時間は無視されてしまう。
第1で、坐部や足は背もたれの中の一要素=枝?とぐらいの扱いしか受けていない。このとき、時間の序列も、背もたれから始まり、途中で坐部、足が枝としてすぐ終了し、また背もたれに移行し最後も背もたれで終わっている。第2は、今のところ、背もたれ→坐部→足と三段階的に移行するだろうと考えているので、A、B、Cの三要素の構成による事象が下図のように1と2とでは単に組み換えられているという違いだけではない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

つまり、第1の坐部や足は背もたれとは異なる要素というより、やはり背もたれの中の一部品にすぎないのであり、第2の独立した坐部や足ではない。ということは第2で登場する坐部や足は、新しい要素であり、1の中の枝としての坐部、足とは無関係と見るべきか。

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第2において、背もたれは、坐部を突き抜けて裏側に達している。とのことはもしかすると坐部の寂しさを助長する大きな要素になり得るかもしれない、もし第2の主題をいきなり床などに持っていかず、あくまで坐部の裏側とするなら、背もたれとともに、足も裏側に突き刺さっている。他のものによって貫かれているという事態は痛さを連想させながら、どこかに悲しさを暗示させる要因となりはしないか。坐部の裏側を見ると、やはりそこにはひとつの物語があり、そこを看過するわけにはいくまい。 ところで、以前考えていた第1→2への転換は、それぞれを図のように二重画像とし、1のaはそのまま最後まで定着させるが、1のbが2のaかbのどちらかに移行するかはわからぬが1→2としてメタモルフォーゼするというものだった。これをそのまま背もたれや坐部に応用すると面倒な問題がいくつか起こる。


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1のaが背もたれ下部からはじまり、すぐに坐部、足を枝として解釈、?捨象し、先端に達する時間だとし、それが左から右に移行すると考えるなら、l-bの右から始まるのは、逆に背もたれ下部となる。うまく描けぬか、bが右から左に移動しようとするときの初発時に、また奇型としての坐部、足が登場することになるが、これは仕方がないのか。図1.35の点線部分によって原型である椅子(もたれ)を暗示させるという目的があったので、たとえ奇型としても坐部、足が2回登場するのはあたりまえであったか。

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ところで、再び図1.36を分析してみる。椅子の第1aが下から上方に向かっていく運動なので、それに合わせて、左図も1のaは下方から上方に時間が経過するものとする。すると、図l.36.Aは、1のbにおいて逆に右や左の推移は、下から上に向かっていくものか、言わば2には逆時間進行的に下方に向かつてしまう。それに対し、図1.36.Bは、1のbはそのまま、2の上方へと推移する。

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もっとも1のbは2のaに到達している。この逆時間(?)を辿って別なるレベルへ達しようとするところが、ひとつの仕掛けであったはずである。より具体的に言えば、1のaとbも相対的には逆の時間を持つ関係にある。扱っている素材は1本の線分のみであり、これを↑としてみるか、↓としてみるかの違いしかない。時間経過を左から右に空間化するということだったら、当然<向左上…註1>は↑であり<向右下…註2>は↓であるから、それだけで時間は逆の関係にある。1と2で減速、加速の違いを設定しであるのもまだ恣意的だが、これは、また別の言い方をすると、時間を左→右へと空開化するのと右→左へ空開化するとの相違とも考えられる。そうすると、2のa、bは逆にしなければならないかもしれない。ともあれ、1から2へ推移するl-bが1の下から上へ向かう↑的時間であるはずなのに、それが2の↓的時間へと変わってしまうのがAの方であり、これを暖昧ながら逆時間を辿る、と表現したのであった。またさらに1-bは右→左へと辿るのに2では左→右に変わっているのもひとつの仕かけである。Bの方と言えば、1-bが2で左→右には変わるものの、↑はそのまま?として2に達している。ここはむろんもっと詳細に分析しなければならない。
ところで、椅子の1→2にあって背もたれの↑的時間が2の↓的時間へと逆転することを書いてきたのだが、これは先の逆転とは無関係のものだろうか。背もたれの成育する時間が↑と上方に向かったのと、第2において主題である坐部を突き通す役を果たすだけのために↓へと下方に向かうのは、たまたまそのテーマから時間が逆転したと見るべきなのか。たまたまなら、もしそれをさらにA図のように時間逆転を企図すると一体図はどうなるか。

相当遊びの要素がはいっているが、1-25に述ベたように第2の物語の本質に、坐部裏側は他の背もたれや足によって突かれることによって相応の寂しさを顕現している、と考えるとする。実際に坐部裏側を観察して感じるのはある種の暖かさであり、枠部分の波形(註3)のエキゾチズムである。しかし一方で、取ってつけたような枠部分の中途半端さ、まさしく裏側としての放置されている荒廃もあるに違いない。そこに突き通る足や背もたれは、言わば邪魔な存在であり、本来、裏においても得られるだろう安息を排除しているところがある。このとき、第2の時間が、突くもの→突かれるものと進行すると考えると、「背もたれ+足」→「坐部裏側」となり、上方から下方に向かつて直進する背もたれと、下方から上方に向かつて直進する足とは同時に時間進行する、と見てよいかもしれない。それが終了してから坐部の時間が始まる。図式化すると、背もたれの一部の枝として足や坐部があった1に対して2は左図のような構造になるのであろうか。次の第3はどうなるか。

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第3で希望を導入せずに、また別の絶望として新しい床を登場させる状況を設定してみると、今度は、足も背もたれも坐部も区別がつかなくなった椅子全体に対して床という新しい素材が登場する。しかし椅子全体というのはつかみどころがないので、全体を足として解釈する、と考えてはどうか。

足の先端に申し訳程度の坐部や背もたれが付随している。そう考えると、結局、第1は背もたれが主語であり第2は坐部であり第3が足である、という単純な構図になりかねない。他の素材は主語の部分となるが、それでも図式化するとし2、3はこのように違ってきそうである。第4はどうなるのか。


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その後、新しく出てくる素材は壁であり、天井であり天窓の唐撃である。天窓における唐草模様が最初の背もたれのフォルムを想わせてこの物語は一応完結することになっている。これもいささか創作的だが、足→床+壁+天井や天窓の全体が、どこかに足→坐部→背もたれという下から上に向かっていく希望としての椅子のありかたに照応している。第3では、どこまでも広がっているような閣の中に消失する床が主語となっている。椅子は主題から外れており、外観も光が照射しないシルエット的なたたずまいを呈している。ごくあたりまえに考えると4は直線的な構造にならざるを得ない。 ただ、これまで通りに処理すると、最後の天窓は天窓のフォルムを描くものの、はじめの背もたれとのアナロジーは見出しにくい。さらに第5の状況をつくって、天窓が背もたれ化する場面を実現させるのか、それとも第4の壁、天井、天窓は、椅子の足から坐部、背もたれに視線を移動させるときに感ずるような「椅子の生誕」的な要素を付加してやればよいのかーーたとえば、壁、天井、のフォルムの一部を坐部から、天窓のフォルムの一部を背もたれから得る、というように。1はそれ自体で奇型であるから、4もまた部屋とも椅子とも判別のつかない奇型にしてもよいということか。

3で床が出てくるものの、1、2、3だけを取ると、足、坐部、背もたれの構成がそれぞれ異なっており、この中だけで物語を組織するだけなら簡単かもしれないし、完結するだろう。しかし3以降で椅子以外の要素が登場するのでわかりにくくなる。また床も、面積的には広く、墜ともなれば、椅子全体を囲むほどの存在であるから、状況の中に存在するそれらを全部扱うべきなのか、それとも視覚に映る範囲内でよいのかは、難しいところだ。
もし、もっとも一般にわかりやすく画面構成を企画するなら、二重画像的な操作など行なわず、最初から最後までひと筆描きのように円環させる方法が適格だろう。しかしこれだとあまりに完結しすぎていて、CG画像が実現しなければならない例の<間>や虚無的な地平を開示しにくい。二重画像とは、方法的には貼り合わせ的な合理化の手続きを取るか2つの絵が接近しながら最後のところでは一致しないものの、そこに固有の物体が存在するかもしれない、というニュアンスをもたせる技術であり、独立した背もたれが存在していそうでやはり消失していくような構造とかなり適格に形態化できるように思われる。したがって最後に、窓の唐草か、戸外の樹木が再び背もたれに帰着するにしても完全に円環させるのではなく、その隣りに影のようにひっそりと降り立つことによって、よりアンビバレントな構造を定着できるのではないか。

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先に3 と4 とを分けて書いたが、ここはやはり3 で終了するとしたらどうか。
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