『部屋へ』1993-0121-0130

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ここで、第1 から第3 まで、どのような展開になるか、単純化した図で展開してみる。

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第1 から第3 まで、それぞれ独立した画像はあらかじめ描かなければならないとすると、1 は図2.1 であり、2 が図2.2である。1 は例によって坐部や足を樹木の枝として、(背もたれの一部として)成育する。l-a がはじめにそれを覗かせるが、すぐに消失し、下方から上方に向かって進行する時聞は、背もたれ先端部にて終了する。a-b はそれを反転したものだから、こちらも今度は右側の初発時に坐部、足を奇型的に覗かせる。2 の完成図は、背もたれと足とがはじめから同時に進行し、最後が坐部となっているので*図縛入*という構図になるが、これも、2 は時間進行を逆に左←右とすれは'、途ってくるだろう。2-a と2-b を反転したもの同士として描くとこのようになるだろう。そしてl-b が2-a に推移すればよいのだから、処理結果が左のようになるのだが、背もたれがl-b から、2-a に達するのはよいとして、足も同じようにl-b の奇型のそれが2-a の足へと到達させてしまうのは変だろうか。l-b から2-A への推移は、冷静に考えれば、もともと不可能なことをやっている、と言わさ、るを得ない。H乙あっては部分でしかない坐部が2 では主語となっている。つまり、坐部や足を部分として成立する背もたれとは、その全体はやはり背もたれそのもの以外ではない。ここでは背もたれという存在が、そのまま坐部へと変容するのではないが、それに近いことをやっている。2 において、背もたれは坐部の一部、という存在ではないが(しかし、これも厳密に考えれば本当にそうであるかは暖昧だ) 0 1 では全体であったものが2 ではひとつの要素(あるいは過去の?拒絶される? )となっているのである。同じように考えれば1 においては今度は部分でしかなかった足が2 でひとつの要素と化しでも特別変ということもないかもしれないが。いずれにせよ、変容する背もたれも是も時間進行が逆になっているのが特徴である。1 の背もたれは下から上に向かつて成育するのが2 では上から下へと下降する。1 の足も上から下へと延びるものが下から延びて坐部に刺さる方向へと変化している。この時間進行の逆転がおそらく1 から2 へ転成する際にもっとも重要な鍵となるだろう。少少し前にこれが、偶然、椅子の物語の1 → 2 における転成の特徴にすぎないのか、あるいはすべてのレベル転位に共通の特徴であるのかを書いたと思うが、やはり後者が正しいと考えなければならないのではないか。

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これを単純化すると↓的時聞が↑的時聞に変化するということなので図2.5 のようになる。

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第3 の完成図はかなり面倒だ。í背もたれ→坐部→足J という時聞は背もたれと坐部を足の視点に置くなら、足の部分として見てよいかもしれない。坐部と背もたれは奇型化し、全体から見れば足の先端の付属品でしかなくなる。その後の床、壁、天井、天窓がどうあるべきなのか。図は壁が4 面ではなく視覚に映る一面でしかない。
壁を視線が辿る一面の中の一部をしか描かないのと、部屋全体を構成する4 面(あるいはそれ以上)すべてを描画してしまうのとでは全く意味が違ってくるだろう。全体を少し暗示しながら、周縁はぼかして消失させるという手法もあるが。
椅子が上方から下方にかけて直進するのであれば、床から天窓までは逆に下から上に向かつて上昇する。これを1 本の(2 本の線) で表現すると、3 - a と3 - b とは左のようにならざるを得ないのではないか。

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そして2 から3 への変容は図2.6のようにか。もっとも、1 → 2 → 3 の図は、上から下にならベることの根拠は何もなく、以前考えていた配置も図2.7 のようにきわめていい加減なものだった。いわば、これは一枚の絵の中に複数の絵が存在し、それぞれが連関している、という状態である。ただ上から下に3 枚をならベるだけだと最後の3 がまた1 に帰るときが大変なので、また伊1 •2 • 3 とした方がよいのか、あるいは乙5.. 1 • 2 • 3 と三角形的な構図を描いて円環させた方のが合理的かもしれない。とはいうものの、3 を2 の少し右上に持ってくるとこのようになってしまい、足や背もたれが坐部裏側に達する物語が互懐して、床へ達してしまう別の物語が始まるという転成を全くうまく表現できていない。またこれらの図はきわめて単純化しているが、実際には視点の移動に大幅の変更があり1 に対して2 はかなりローアングルから坐部裏側を見上げているのである。むしろ2 は3 よりさらにローアングルで上を見上げているだろう。背もたれも坐部裏側に突き出ている部分のみでほとんど姿を隠している。 第2 から第3 への推移はかなり陵昧である。第2 は、足+背もたれ→坐部の順であったのが、第3 の椅子部分は、背もたれ→坐部→足となっているようである。つまり

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へと徐々に変容させるということになるがモチーフが複数の要素によって構成されているので処理は難しい。2 が大きく分けると2 つの区分(時間帯)、3 つの区分(時間帯)によって成り立っていることは重要だろうか。
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たとえば、2 の足+背もたれの単位は3 の背もたれという単位に変容すべきなのか。あるいは図2.9 のような関係を形成しでもよいのか。似たようなことは第1 から第2 へ推移するときもやっているに違いない。あるいは、第?の椅子は全部一体化した存在であるかもしれない。今の段階では、2-b として足が始まるか、それが坐部に突き刺さる前に旋回して、足であるのに坐部を途中で発生させ、また足となって床に帰着するという構図である。また背もたれの方も同時に開始されるが、これも坐部に突き刺そうとする前に別の坐部を発生させ、足となって足から始まって足に終わるものと一致して終わる、という状態である。ただし足は4 本あるため、そのうち1 本の足として床に到達するのか、あるいはまた4 本の足に分化するのか。もっとも3 の完成図は、椅子の部分だけ取ってみても奇型である。坐部などは足の装飾物としての存在でしかないだろう。第3 の主題とは床の方にあり、椅子の中の複数要素の構成などは看過されている。2 、3 を構成する要素が複数であり、その単位を意識することは重要ではないか、と書いた。前頁に書いた図だと、相互の単位を括っているf ι0 ~ ものがいくつかあるが、これはひとつだけにすべきで、はないか。なぜなら変容はひとつの単位同士で行われるだろうからだ。


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さらに言えば異なるレベル同士を結ぶ単位ははじめに登場する単位でなければ意味がないのではないか。図2.11 はごく単純な、A 、B 、C 要素(単位)を組み換えたものが異なるレベルに存している図である。

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このとき2 のA と3 のC とが括られる。括られるとは2 のA から3 のC へと変容が行われるということであり、残りの2 のB 、C 、3 のA 、B は、二重画像的にどちらも存在させてよい。そうすると2-3 に描いたl-b が2-a に推移するプロセスにおいて、足までがl - b から2 - a に推移するのはおかしいことになる。なぜ、そこでは坐部が同じように変容していないか、も問題になるが2 にあっては、足と背もたれがもっともはじめに開始するモチーフであるという事実はひとつの根拠になっているだろう。とすると、変容を行うことのできる単位とは2 つのレベルにおいて、最初にはじまる単位のみ、ということになるだろうか、一一最後に終了する単位はそのまま完成図を定着させるべきなのか。 第1 レベルにて、足、坐部を背もたれの部分としてしか見ない見方があるなら、第3 で、背もたれや坐部を足の部分としてしか見ない見方も当然あってよいだろう。第2 では、足と背もたれが同時始発し、次で坐部に移行するが、このとき足、背もたれは坐部の部分ではなかったろうか。前頁に書いた図をもう少し正確に書くと図2. 1 2 のようになろうか。


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一見A とB とが組織されて成立しているモチーフでもをA を観察してB を部分としたりB を観察してA を部分とみなす認識の仕方は当然あるだろう。 ここでそのように、いくつかの要素を内定している事象を見るときの要素聞の関連の種類をまとめてみると一一 現段階だと、1 の特徴であった部分一全体の関係性がまずあり、それから2 の特徴であるA やB的な関係がある。また部分ー全体関係にしても1 の坐部や足は、背もたれ開始にすぐ登場せず途中ですっとその姿を現わして消えていくか、3 の足が、坐部、背もたれをもし部分として持つなら、何となく、完全な部分というより背→坐→足→の順序のよって足の全体が現出するように思われる。

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2-7 の最後に述ベた各レベルにおける要素関連のタイプをもう一度書くと、

1.部分一全体、部分は全体の中の途中であらわれ、途中で消失する。 2. A → B 的関係(突き刺さるもの→突かれるものの関係) 3. 部分一全体のようでありながら、部分→全体と、部分が先に登場し、完全に消滅してから全体が発生する。 4. また新たなる素材の登場。それまでの全体は否定される? 1 はレベル1 の坐部+足と背もたれの関係、2 はレベル2 の背もたれ+足→坐部の関係、3 は、背もたれ→坐部→足として進行するレベル3 の関係であり、4 は、新しくレベル4 とした方がよいか、レベル3 にまとめてしまうのか不明だがもちろん床その他の登場を指している。2 のA → B 的関係とは、A を否定してB が成立するという言語の本質をそのまま端的に示す例ではないか。また3 は腰昧だが、むしろ背もたれ+坐部+足をそれぞれ部分とする新しい全体のあらわれのようなものではないか。4 の新たな素材が登場し、それまでの椅子全体が否定されるとは、2 のA → B 的な関係に似ているのではないか。 2 のA → B 的関係がA の否定とB の肯定によって成立する記号性なら、たとえば1 のシーンにおいて、否定されるものは何だろう。また、そのA → B 的関係の処理方法は普通のA を描いてからBに移行するという訂正法などでよいのか。 はじめの、背もたれへの接近にしても、視点が部屋の中に入って椅子を見つけ、近づいていって背もたれのフォルムにさまざまな幻想を見るという時間性がテーマになっている。つまり、視点の接近、だけで、一種の奇型としての椅子を獲得しているのである。きっと、もっともはじめに現れる椅子全体の外観はみすぼらしいものだろう。とくにフオルムの変形(最初の背もたれは直立する無機的なフオルムを描いている、とか)はまだ考えていないが、等1 において、左から右への時間の拡張は何かから別のものへ変容を企図していることは違いない。しかし、これは、そのみすぼらしい椅子(背もたれ)を否定して、楽しい有機的なフオルムを描くそれを獲得する、という意識のあらわれになるのか。だが、それはあくまで同一モチーフ内いでの変遷であり、第2 のA → B における異なるモチーフ閣での否定、肯定をあらわしているのではない。つまり、たとえば、プラスチックの定規を観察するとき、それがかつて鉄製の定規であった過去を否定して現在のプラスチック性を奪取している記号性と、空間的にとなりの場所に現にある鉄性の定規を否定してプラスチックの定規を得ているときの記号性の違いのようなものである。前者は時聞がテーマであり後者は空聞がテーマになっていると合理化できないわけではないが。要するに第1 のみすぼらしい背もたれから優雅な背もたれへの変容はむろん行なうものの第2 で突き通す素材(背もたれ、足)が突き通される素材(坐部)へ変化することは決しであり得ないーやってみても意味はないだろうからだ。何より坐部裏側の特徴は、副次的な背もたれ先端や、突っぱる足や、枠等が見るものの存在を危くする役を演じており、それらが坐部のゆったりしたイメージを著しく損っているところにある。すなわちこれを対比的にそのままきちんと表現しないと坐部裏側の本質は伝わらないだろう。
それから前頁3 も、足が主題となっているものの、「背もたれ+坐部+足」全体をひとつの新しい足とみなしているところがある。何となくだが、図2.13のような構図を描いているところがある。

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これは単にA 、B がC の部分となっているのではなく、A 、B を否定してC が成り立っているのでもない。A+B + C がまた別なるD というモチーフに化すこともあるだろうから、C の逸脱をどのように説明すればよいかはわからない。

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ただ、ますます問題が拡散しそうだが、図2.14のAB C 3 つによって成立している事象のC という要素によって全体を言わばC と化するというような事態はあり得ないだろうか。いや、図2 .1 4ではちょっと見当がつかないので図2.15ではどうか。

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だが、結局、これは、C の持っている性質をA 、B にも応用することでしかない。A 、B の性質の一部を残しておいて、C の特性を他のA 、B の一部と入れ換えて奇型とすることでしかない。その程度のことだったら、2-8 の1 において、考えた部分一全体の処理とほとんど変わりないのではないか。なぜなら、1 では、坐部と足とを背もたれの一部(枝)としているが、それは坐部、足を奇型化していることであり、本来それらが持っている性質の大半を背もたれの枝の性質と互壊しているのである。そう考えると、3 も広義には、1 と同じく、純然たる部分と全体の関係を形成しているにすぎないことになる。 2-8 のところに書いた4 つのパターンも、冷静に考えれば2 つに分類される。部分一全体として、1 と3 を一緒にして、A → B (A を拒絶してB を意識する)として1 と4 を括ることができるかもしれない。そうするとA → B の具体的な表現方法を得ればよいということになるのか。もう一度、2 - 1 から書いてきた図を掲げると、

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どうも最後のところがよくわからない。部屋は忠実にその外見を再現する方が効果的か、それともすぐにデフォルメされて、椅子的なフォルムを描いて天窓において背もたれに形態を生むのか、またどこで1 の背もたれに到達したらよいのか。 1 の背もたれは上下から出発するものが接近してそこに背もたれらしい表情を察知させながらまた離反していくというという特質を持つ。しかし、最後の天窓が背もたれ的なフォルムを描いてやってくるとしたら3 つの背もたれが共存するということになる。それとも、思いつきだが、1 が二重画像の処理によってひとつのレベルを形成しているなら、4 (3) の最後は、同じく左右対称的な二重画像で終了する、というのはどうだろう。1 の二重自の画像はそれから2 に移行するが、最後の(4 ) 二重画像の二枚目の方はどこかに消えていく。次の物語がまたはじまるということを思わせてその先は描かないのである。何と言うのか、全く新しいレベルを開示させて途中で終了してしまう方のが、完全に円環するより好ましいのは確かである。上の構図はレベルを分けて別々に書いているが、1 における背もたれは2 の否定されるところの背もたれでもあり2 の坐部は3 の足の部分でもあるから、言わば図2 .1 6のような入れ子的構造を持っているとも考えられる。そうすると最後の4 か5 がこれまでのレベルを抱括するものの、実はそれがまた背もたれだった、という結論で終わる物語が考えられよう。

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1 は、部分をたずさえて全体である背もたれが成育するが、2 がA → B 的言説を持っているなら、1 において否定されるものは何か。もちろん足や坐部は否定されていない。1 は、視点の移動があるのだからそれだけでも変容を行っている。1 の椅子としての特質は、何かを拒絶して獲得しているはずだが、何を拒絶しているのか。1 の背もたれがすでに奇型であるのなら、常態としての背もたれから異常な背もたれへと変容していることになるが、そのとき否定されているのは常態としての背もたれか。そうすると2 のA → B もA からB へと変容を企図しなければならなくなるが、突くもの、突かれるものの関係を明瞭に描写しなければ、坐部裏側の痛々しくうら寂しい景観は表現できないのではないか。ただし、左から右への時間軸の拡張とは、結局、過去の意識を左に現在のそれを右に設定する空間化であり「突くもの→突かれるものJ という時聞を2 つのモチーフで説明していても別に間違っていないかもしれない。 もっともその「突くもの→突かれるもの」が単にはじめにA を登場させ、次で時間差をもってBを登場させるだけではあまりに安直であるかもしれない。図2 .1 8のA とB が構成された事象を観察するときの意識はさまざまである。

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A がB を貫通しており、その異常性、やや欠陥のあるB を認識する意識のありょうは当然考えられるし、そのときA はむろん主題ではない。たとえば、時間差を与えて表現するB にはA の貫通した穴を? 設けてしまうとか?穴から背景がのぞかなくとも、元A が入っていたと思わせる窪みをつくってやるだけでもA の欠陥性をイメージできるかもしれない。また、アニメーション的にA が延長して静止しているB に達し、貫通する、という動きがあるから「突く、突かれるJ の関係が生じるのかもしれない。 ともかく、ただA を表示し、次でB を表示するだけだと、A-B が連続しているモチーフの処理と変わらなくなってしまう。一一ブルックナーのようにいろいろなレベルが錯綜している画面全体をつくろうとするなら、肝心なのはまずひとつひとつのレベルにおける絵が具体化していることであり、それはどのような奇型でもよいから、いや奇型であるゆえに、強烈なイメージ、情感を喚起させるものでなければならない。実は椅子は、もともとは比較的そこにあったからという着想から手がけている題材の感が強い。それほど思い入れはなく、したがって無理に椅子の物語を創ろうとするとやはり無理がありそうである。ただし一応は完結したモチーフだからCG としては扱いやすい(とはいっても背もたれのフオルムなど本当に面倒であるが)という事情はある。
坐部裏側がかもす情感とは、すでに劇が終わった後のうら悲しさであり、爽雑物を片づける気力もなく放置しているときのいらだたしさである。坐部に腰を落として休みたいのに、木枠や、出っぱりがそれを邪魔している。またあたりまえのことながら坐部は裏側なので坐ることができない。裏側ではないが背もたれが接触する部分と背後から見たところの撲が沈澱している場所も梼子が持っている安息の概念を覆しているところがあるかもしれない。光が遠ざかることも特徴のひとつだろうか。まともにそこには光が当たっていないだろうが、どこに設定すればよいか。別々の場所に当たっているか、坐部裏側なので逆光にしとけばよいのか。また、思いきって坐部の面積を狭くし、ただ背もたれ先端、足の先端が坐部に接触しているという事実だけを拡大するという方法も考えられないわけではない。永遠に坐ることができない椅子というのか。たとえば、これは冗談だが4 本の足が接触する坐部が4 つに分解しない程度に、接触部分だけを強調するとこのようになる。何とかというイタリア在住の日本人アーテイストの作品にもあったが、坐部であるはずの面積が非常に小さくなっているにもかかわらず、背もたれや足が存在しているという椅子が構造的にも成立していて、床にちゃんと立っていた。本当なら坐りたいはずのところに、いろいろな邪魔が入ってそうはならないというのがテーマだから、ひとつの方法ではあるだろう。最後のところがどうしてもわからないが、すべてレベルのモチーフが奇型なので、最後の部屋も奇型でなければならないだろう。いや、最後が3 なら、足から続いていることになり、足がすでに して奇型であった。2 までが、椅子内構成要素の組み合わせだったのか3 で新しいモチーフ(床'"'-')はじまることにそれほど批判的にならなくてもよいのだろうか。テーマとしているのは、椅子そのものではなく、椅子を始めとする事象を観察するときの意識のありように他ならず、楽しかったり悲しかったりすることがあれば、どんな対象にそれを感じたとしても、充分に主題たり得るのである。3 と4 のどちらかにするかりで終わりにするのか、4 で終了するのか、あるいは5 か)も特別重要な問題ではないかもしれない。希望と絶望の中間的状態や、2 回連続して続く別種の絶望などもあるかもしれない。しかし部屋を奇型とするとき何を根拠とすべきなのか。1 、2 のそれはすべて根拠があるが、それは、椅子の中の部分一全体に拠るところが大きい。1 は坐部、足を背もたれの一部とみなしたからあのようなフオノレムを生み、3 も椅子全体を足として解釈したからあの奇型となったのだろう。単に3 か4 で、椅子全体の否定、新しい部屋というモチーフだけでは部屋全体の奇型は生まれないような気がする。 ————————————————————————029


これは思いつきだが、部屋全体が椅子化し、天窓が背もたれ化する奇型の根拠として部屋は椅子を否定することによって登場しているものの、椅子は足化した椅子である。足は、全く中途半端な役しかになわない。とすると否定されたのは足であり得る。足を否定して逆に獲得するものとは、足とは逆の立場にあった坐部や背もたれではないか。足における、何かと何かの橋渡し的な存在でしかなく、それ自体でいかなる自律制を持たない性質と反対の性質とはむろん、優しく精神を包み込むような場である。簡単に言えば、ゆっくりと腰を下ろした椅子がただ床の上に直立する無表情なオブジェでしかなくなったため、床や部屋の方に優しさを見出した、ということにすぎない。とすると、部屋全体に発見したものは他ならぬ椅子の優しさで、はなかったか。そう考えると部屋が椅子化する(椅子のフオルムを帯びる? )のと全く無根拠というわけでもない。 奇型とは、A を構成する諸要素のいくつかをB の要素と互換した結果生ずる異常性であった。全部取り換えたらA がB になるだけだから意味がないので、一部のみである。もちろん、互換した要素にはある共通項がある。1 や3 の奇型は部分が全体の一部となりフォルム面で、影響を受けて生じた。あるいは部分を全体の部分としてしか見ない意識が奇型を生む源となっている。これに対して最後の部屋の奇型とは何か。

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変な話かもしれないが、<1> においてはA . B とC との関係はA.B が希望ならC は絶望であり、A . B が優しさならC は不吉さ、卑小さという関係性を有している。これを<2> において、全体をC としてまとめてしまった。つまりその時点では全体が絶望となった。ところが<3> でC を否定する新しい界域が登場するが、これは過去のA . B 的な存在と言ってよいのではないか。<3>において生ずるC に対する新しい何かの関係の質とは、はじめに<1> のC に対するA.B 関係と同等なのである。とすると、<1> でC に対して、A . B が持っていた相違点と同じ相違を最後の<3> におけるC に対する相違として新しい世界は持ってよいのではないか。 この奇型は、1 などの部分一全体に生じた奇型の質とどのように異なるのか。何となくだが、上の図から推知すると、<2> から<3> への過程は全体が2 つに分裂した趣きがないとはいえぬ。一一いや、結局、1 、2 と続いてきた奇型の根拠と同じなのではないか。1 から3 、4 までをすべて部分一全体論によって解決することもできないわけで、はない。

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椅子全体を構成するのは背もたれ(A) 、坐部(B) 、足(C) の三要素であるが、要するにどれがどれを部分とするか、という組織の仕方がレベルによって違うというだけのことだ。
1 . . . 背もたれが主であり坐部、足を部分とする。 2 ・・・背もたれ+足→坐部は、見方によっては坐部が主であり背もたれと足とを部分とする、と見られるだろう。 3 ・・・足が背もたれ、坐部を部分にしている。 4 . . .その足が部屋である背もたれ、坐部によって部分とされてしまった。
これだけ見ると一応は理路が通っている。それぞれはすべて奇型的に描かれなければならない。全体一部分(主一従)を奇型化するとは、つまり主の方はそのままで従の方をよほど元の外観を逸脱しない限りで、主に近づける(主の性質を帯びる)ということでなされると見てよいか。( 1 • 2に変容するフオルムは奇型ではなく、これは例の変容のシステムによって奇怪に見えるだけだ)しかし2 の坐部が主であり背もたれ、足が従としたとき従が奇型化して主はそのままだとすると、具体的な状態がわからない。3 はOK である。全体が足のフオルムを帯びている。4 も少しわからない。なぜなら、主である部屋の方を変容することを考えているのに、逆となってしまうからである。それとも、1 と3 、2 と4 はやはりどこかが違うのか。また、2 と4 とも何かが異なっているか。 第一、4 で椅子化する部屋とはどんなフオルムになるかがよく掴めていない。部屋は特別奇型化(椅子化)しなくとも通常のフオルムで、ある意味では椅子化している。天窓は、やや怒意的に背もたれへ達するために想像したモチーフである。最初は普通の壁にある窓であった。天窓の方が天に達する一一あるいは天窓の飾りを通して空の方が見えやすい、という事情があった。たとえば、本来、4 で否定された足に対して登場するのは「床」だけにすぎないのだが床を椅子化するために「床→壁→天井→天窓J と奇型化、変形した、というようにも考えられる。このときは平常の壁、天井、天窓という部屋の外形がすでに床の奇型なのである。この考え方は、比較的通りそうだ。 もっともたとえ平常でも部屋の大きさをどうするか、椅子に対して普通持つ大きさにしてしまうのか、あるいは背もたれ→足までの長さと大して変わらない大きさにするのか、等によって全く受ける感じは違ってくるだろう。それともまたほとんど左右対象的な構図を椅子と、椅子化した部屋とで対比させても一興の半分ほどはいくかもしれない。 どのような形であれ部屋が登場し、最後の窓枠の飾りが出現するとしたら、それをどのようにして終わらせるかがまだわからない。それまでは陰湿でくぐもった部屋内部が天窓の窓飾りから通してみる蒼湾によって天上の無限をほのめかす、という変化はよいだろう。あまり深い意味はないが、距離感を出すために床や壁には格子状のパターンを冠してもよいのではないか。上を見上げる動作のために壁の格子が大きなパースベクティブを描いて凝集する状態を空想している。1 は二重性a 、b のうちb が2 に移行する。2 もa 、b のうちb が3 に達する予定である(とはいえ、2 のa - bのa は1 のb である)。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇