『部屋へ』1993-0131-0150

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同じ方法に拠れば3のbが4のaに達し、4もa-bの二重画像を形成することになるが、どうだろうか。4のa(3のb)はいきなり1のaに接近するという方法も考えていないわけではないが、これには何の根拠もない。 以前描いていた図では、4のbか何かが、図2.21のように1のどこかに達して終了するということだったがそれは結局、図2.22の(1)〜(4)のうちのどれかに近似してくるということである。 どれを選択するのか、またどの位置に帰るべきなのか。また2-11に書いたような方法もある。これも確証はないものの、上の(2)は1-bであるが、そこに接近すべきではないか。なぜなら1-bは途中で2-aに転落するため、最後まで捕かれない。だが、それを最後まで描いた結果として4-bがある、というのはどうだろうか。本来なら1-bと4-bは同じ画像なのだから2枚を合わせれば合致するはずなのであるが、1-bは途中で2に移行し、4-bもはじめは4の方である。したがって同じ絵であるところの2つが接近しつつ離れるというジレンマを表現するのに適してはいないか。

3から4、(あるいは2から3)にかけてのレベルの転換には、椅子が着地する床から天井へ向けての大きな部屋というフォルムの変容があってよいだろう。床を見ている視線が、天井を見上げる視線へと推移する変化にすぎないが。床や壁、天井のフォルムは図2.23のようむ部屋全体の回転移動の変化から割り出すことができるだろう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
もちろん、部屋を外部から観察するのではなく、部屋内部の視点の変化にすぎないから、画面上においては床や天井が無限に広がっていることになり、椅子部分と重なるように画面四方までこれを拡張してしまってよいものか、あるいはどこかで切断するのか、またグラデーションの方法でぼかしてごまかすのかという問題が残る。床、壁、天井上の全面に方眼ベースを貼るのなら、画面全体にその模様を拡張するのも面白いのではないか。部屋のテーマは、他の題材を扱うときにも重要であり、この部屋全体が大きくうねって不可思議なフォルムを形成する図は頻繁に登場することになるだろう。簡単に言えば部屋の中に存在することの不確かや不安を象徴するフォルムであり、かつての河原温の浴室に近い感覚に他ならぬ。部屋内部だけの視線の回転移動によって形成するフォルムはどうなるだろうか。いい加減に想像で描くと図2.24のようになりそうな気がするが、時間がモチーフの左から右に移行することの根拠は何も明らかではない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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超広角レンズを用いた室内写真と見ることもできるが、モチーフのどこからどこまでに時間が走るのかの定議によっていろいろなバリエーションが生じるに違いない。むろん最後には視点が天窓の飾りに接近するだろう。「モチーフの左から右」と書いたが、時間を画面上に左から右に拡張するのは自明のシステムである。モチーフにおいても「左→右」として処理したものが図2.24になるのか。

現在できる範囲の構成を考えてみる。3と4は無理に分けることもないだろうから同じにする。
1.2,3,それぞれ正時間と逆時間の二重画像を前もって用意する。3においてそれが必要かどうかの議論はあるものの、3だけ二重構造にしないことの理由はさらに何もない。何しかし1において背もたれという固有の言語性が2つの界域の急接近によって(それは一致することはないが)、生成するのと同じように、3においても同じ事態が起こり得るというところまでは想像できない。とくに部屋全体が二重になるのはやや不手際のような気もする。

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ともあれ、1は上図2.25のようになるしかないだろう。フォルムをごく単純化しているが、基本的には椅子を背もたれ主体に担え、下から上に樹木が成育するという時間のもとにそれを認識する。2については、まだはっきりしないものの、背もたれ+足→坐部という構造化がなされている。つまり、上下から中央に向かつて時間が流出する。3は、上から下(背もたれ→坐部→足)への時間がさらに部屋の左から右へと流れる。3における、a、bの二重性はこのように考えたらどうか。aの方は上から下へと椅子全体を捉え、さらにそれを否定して床へ移行するが、せいぜい足が接触する周辺付近にとどめておき、その先は闇の中に消失させてしまう。6の方で初めて壁や天窓を登場させるのである。つまり、bは1のaに帰るための存在だが、それが1に帰依する理由、必然性として壁、天窓を描写する、と考える。最期の救済とは、再び椅子を楽しいものとして回想しようとする希望であり言わば、部屋全体を椅子と見なしている。1は、下から上へと椅子を解釈した。3は逆に上から下へと椅子を解釈してみたが、床から壁、天井への推移は下から上へと向かっている。 もっともモチーフを床→壁→天井→天窓へと分割して時間が順に移行すると見るか、単に視線の移動が床→壁→天井へと推移していると見るのかで違ってくるが。ただ、これらを一度に全部処理するのは至難だろう。
1から2への転位は、何度も書くように、1の下から上に成育する樹木が2の上から下に降下する背もたれへ変容することによって行なわれ、坐部は1と2の両レベルに出現して二重構造になっている。背もたれが他の坐部や足にではなく、時間進行が逆になった同じ背もたれへと変容するところに本質的な価値を置いていたように思うが、これは他の坐部、足に変容してはいけないものなのだろうか。とはいうものの、2の足は3の足だけでなはなく、背もたれや坐部も合めた椅子全体へと変容する場面を想像している。具体的には足を3つのパーツに分け、各々を第3の背もたれ、坐部、足へと分化させることになるのだろうか。床も登場するが、床は、足とは別に新たに現出するモチーフとして描くことになるだろう。ともかく、決して第1の背もたれが第2の背もたれだけに変位しなければならないとは限らないとするなら、背もたれ→坐部、背もたれ→足、背もたれ→坐部裏の枠など、いろいろなパターンを生産できてしまうことになる。
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また当然各モチーフ内の時間進行のパターンもいくつかあるだろう。CGにおいて、ひとつのモチーフがまったく別のモチーフに変容するメタモルフォーゼは限りなくあるが、あまり奇想天外なメタモルフォーゼに対して慎重にならざるを得ない理由とは、大抵の場合それが決して本来的な奇想天外にはならないからである。キンリとコップの例を使うまでもなく、両オブジェクトを規定する上位構成素が共通項になっていない、というのが主な理由であったが、同じ意味で、椅子の中でも別のモチーフ同士がメタモルフォーゼを行なう事態については慎重であったということである。しかし、背もたれと坐部とをはじめは分類してはいるが、厳密には、その2つを確実に隔てることができないかもしれない。第一、椅子全体を一度に把握するときは、そうした各モチーフの分化は行なわれていないはずであり、背もたれと坐部にしても接触部を通してひとつのモチーフとしてつながっているという見方も当然できるはずである。背もたれは、もちろん、図2.26のような有機的な曲線状のフォルムを形成している。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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坐部全体の形も、実は図の的なフォルムであり、ここにもある共通性を看取することができないわけではない。AからB毘の変容とは、むろん、A・B間の共通性を獲得することであるが、一見、無関係のモチーフ同士でもその共通項を、比較的両者の上位を構成する要素の中に見出すことができれば、違うモチーフ同士の間でメタモルフォーゼを企画しでもよいのかもしれない。背もたれも、笑は、裏側から観察すると、表面が平坦であり、少し坐部裏側の表情にも似ているのである。 1レベルでは、どちらかといえば、椅子に対して背もたれの栄光をしか見ていない。2になると坐部裏側の沈欝さしか認識していない。よって第1から2への変容は、異質のモチーフ間で行なわれでもょうように思われる。いい加減な対比だが、@的フォルムを形成する背もたれは、そのひとつの特徴を残しながら坐部の裏側へと化すことはそれほど不自然ではないかもしれない。校の厚みと幅が増してくると左の穴が空いた坐部へとすぐに転ずるかもしれない。ここにも奇型が発生している。背もたれのすべての要素が坐部の要素と入れ代わってしまうのではなく、一部はずっと残したままであり、一部が互換されることによって奇型としての坐部が成立している。第1から3、4までのそれぞれのモチーフはすべてあらかじめ奇型として描かれるべきだと考えてきたが、その奇型も確実な根拠を懐胎しているべきである。その根拠は、前のレベルからの変容によって必然的に得られるものでなければならないのではないか。これまで想定していた各レベルの奇型は、前のレベルからのメタモルフォーゼの結果生じた質を持っていない。何と言うか、1は坐部、足を部分として持つ背もたれであるから、坐部や足は背もたれの一部の枝のフォルムを形成して小さくなっている。
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2は、特別イメージはしていない一一裏側(下側)から覗き込まなければならない坐部は一種の奇型といい得るのか。3は背もたれ、坐部が足の一部となっている(足の先端)ゆえに全体的には棒状の奇型となっている。
しかしこれらは、はじめからレベル単位の特異性を強調するために編集される形である。この奇型化と、先のメタモルフォーゼによって一部要素を互換した結果としての奇型とは異なるものであったか。第1の枝のように旋回する坐部や足は、坐部、足が背もたれに変容しようとして、部分的に要素互換を達成した状態だと考えることもできる。とすると、この前処理的奇型化と、メタモルフォーゼによる部分互換の奇型化とは大して本質的な運庭はないようにも思われる。

椅子をめぐる解釈は無限にあってよいだろう。そしてレベル1→3(4)まで完結させることばかり考えないで、(レベル1→2にとどまる画像もいろいろな解釈によって、何種類もの展開を考察すべきである。結局、根本にある方法はメタモルフォーゼであり、それ意外で、はないが、これを凡百なCGメタモルフォーゼと一線を劃す条件が何になるか。まず、扱う2つのモチーフのそれぞれが複数の要素によって組織されている点があり、ついでその2つのモチーフが実は椅子という同じモチーフなのである。ということは、同じ椅子なるモチーフ内の構成要素の解釈が異なっている。 広義に見ると2-15の末尾に書いたように、A-B-Cの構成素がどれを主題にしてどれを部分にするか、という相違でしかない。1→2への変化は図2.28であったが、これも背もたれ1→背もたれ2とするのと、背もたれ1→坐部2とするのとではかなり違ってきている。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
問題なのは、メタモルフォーゼが行なわれるのはひとつの要素でしかないということであり残った要素は、第1と2において二重となる。これがありふれたメタモルフォーゼと根本的に異なる点である。また第1だけのものと、第1→2と第2だけとの三重画像を持たせているところも特徴的である。 上に書いた背もたれ1→背もたれ2と背もたれ1→坐部2とがどのように違うのか。背もたれ1→背もたれ2(A1→A2)はたとえば図2.29のように図示しやすいが、A1→B2となると、どのように書いたらよいか少し難しい。函2.30のように書いても少しも面白味がないからである。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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それともA1はrA+BJ2に移行するとでも考えたらよいか。たとえば、背もたれ裏側は、かなり坐部の裏側に近い。背もたれが裏返しになるだけで構成素の一部を坐部裏側から得ているところがある。永遠に背もたれという名を冠していても、いくつかのその構成素を互換していくだけでかなり坐部裏側に接近できる。そしてもはや坐部裏側としてしか思われないような様相を呈しているとき、それでもなお背もたれと呼ばざるを得ない理由があるのか、また前頁の図解をどうしたらよいか。

とりあえず、背もたれ1→坐部2を図解してみる。いつも問題になるのが、第1の上に第2を置くのか、下なのか、あるいは左か、右かという点である。これまで何となく下においていたが積極的な理由はない。右に置くと第1の右←左はまた大きく右に沿れるので、変容領域が間延びする。これは一種の図解でもあるのだから見やすい位置ならどこでもよい、という考えと、決定的な位置があるかもしれないという憶測のはざまにあってなかなか決められない。2を1の少し右上にずらして置く方法もあるかもしれない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


図2.32は、AとBの統合図でありそれだけで、どこか背もたれなのか、坐部なのかよくわからない奇型性をもっていると思われる。これらは暖昧に統合化されるのではない。Aを構成する要素のいくつかを別々のものに(Bにある要素に)置き換えている。たとえば、下から延長し左右の先端部が接触しているのはAとCとの大きな違いだ。あと、に立与の線の幅が相当太くなっている。先端部が丸まりながら接触して一致する事態は、何か、決定的な背もたれからの上昇を意味するような気がする。うまく言えぬが、この違いについて、二、三の言葉ではなく、数+ページにわたるほどの分析を要するはずなのである。まず、背もたれ+坐部の折衷像には多くのバリエーションがある。そしてそのひとつひとつには長い分析を必要とする。本来ノートに書くべきはその部分なのである。

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図2.33は、また偶然発見した処理法だが、簡単にいえば第1レベルで左→右に閃として拡張された図が第2では芯と縦になっており、その位置が少し上にずれている、といういものでしかない。第1の以の右端領界で、背もたれの固有性、というのか、完結性をわずかに時示させることはすでに何度も書いている。左端にはそれがない。すると1-bも、右から左に移行するにしたがって時間が拡張され、背もたれの外観を喪失していくはずなのに、いつの間にか2-aの終着となっている。2の上端も坐部の完結性をほのめかしている。もっとも、1-bをもっと旋回させて2-aとするのなら、2をると上下するものの、図2.34のようにしてもよいだろう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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どうも完成図を具体的に想像しにくいが、1-aは下から上に延長する背もたれを描き、1-bもそこから始まるものの、途中から坐部裏側へと変貌し2-aとなる。2-bは坐部裏側として開始している一一これでとりあえず、第2レベルで、判断停止した画像はできるのではないか。1、2ともに完成図を明確にしておくなら1は、これまで書いた初発時に坐部と足を部分として(枝として)携える下から上に成育する背もたれとなるだろう。これに対し2は奇型としての坐部であり背もたれのフォルムを残しながら両先端が円環し、一致する性質を新しく有している。もちろん1も奇型である。少し前に1の部分として解釈される坐部や足も背もたれへの変容の結果だと書いた。つまり、坐部のフォルムが背もたれの幹のそれを帯びて上に成育しようとする。足は背もたれの枝である、ということだった。2も背もたれが坐部化したものだから奇型だが、ここには変容した要素しかない。1は正常の背もたれと異常の坐部と足とがあるが、2は異常の背もたれしかないので正常の足か何かを付加すべきということか。奇型としての椅子を描くことが、そもそもある要素の別々なる要素へ向けての変容であるとするなら、ひとつの奇型→別の奇型への変容は、変容そのものの変容ということになる。あまり釈然としないが、背もたれ1→坐部2をこれまでの方法論によって具現化すると図2.36のようにならざるを得ないのだろうか。1-bが2-aの坐部先端へと変化する。2-bも背もたれ的な性質を持った坐部が端から始まる。ここで、2における足を1-aの足に接続させてしまいたい誘惑に駆られるるが、1、2だけで物語を完結させるのなら、間違っているわけでもないのではない。

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要するに2つの椅子1と2がある。この2つに対して持つ解釈は全く異なっており1と2とを別々の時間において認識することは日常的な行為であるが、同じ時空の中でその1と2とを同時に獲得せんと試みるのである。1の背もたれが2の坐部となっている一一1の背もたれと2の坐部とが同一モチーフを共有しているという事態はあり得るだろう。最後に1の足と2の足とも共通し合っている事実が明らかになる。共有し合っているのは1の坐部と2の背もたれの2つだけであるー一この構図をやや複雑に、わかりにくくしているのが図2.34になるのだろうか。
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1と2の足とは同一モチーフを共有すると書いたが、問題なのは同じ足でも時闇の経過が逆になっている点であり、1の足の時間が終了する先端が2の足の開始時間の先端になっている。これでどうして逆にしなければならないかという理由の詳細はまた述べることができないものの、異なるレベルの連接部分の本質にかかわる重要?与件だとするなら、同じく共有する1背もたれと2坐部も時間経過を逆にしなければならないだろう。つまり1の背もたれの時間進行は2の坐部の逆時間進行となっていなければ面白くない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ どのレベルでもよいから、ひとつのレベル内のひとつのモチーフをいかなる時間性で解決するかをまた、新しい問題として定義することは意味がないかもしれない。1の背もたれは当初から下部から上部に向かつて樹木状に成育する一一幹に対する枝は、これも樹木状に幹の成育途中で成育を終了する一一等の時間化が決定的であったような趣があるが、なぜそのような解釈をしたか、といえばその解釈自体が1ー背もたれそのものを定義している、と言えないだろうか。同じ形態を持つモチーフも時間化が異なっていれば、全く別のモチーフとなるであろうことは既定の事実である。モチーフに対する特異な感情の質がその時間化を選ばせた、というより、時闇の特定の流れがその感情を生んだとしか言いようがない密接な関係を形成しているのである。2-24のところで、1背もたれが下から上へ延長するものの、先端は分化しているのに対し、2-坐部は先端が接触し、全体としては線が円環することに特徴を持ち、この1、2の僅かな差異は途方もない運庭を物語っていると示唆しながらこだわろうとしている。形態上は接触するかしないかの微妙な相異しかないのだが、全体の時闇の流れは全く異なっているという事態を対比的に論じているのかもしれぬ。つまり1は下から上に延びるのみだが、2は<註1>と丸く円環する構図になっているという意味において。1は左右の2つの対称な形が同時に進行するが2は円環しているがゆえにひとつなのか?すると、大ざっぱには、1→2への変容は図2.37の変化でなければならない?

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前にも書いたように背もたれの表側と裏側とは相当表情が異質であり、裏の切断されたような平坦な無表情さが坐部の幻想を呼んだと言ってもよい。背もたれを背もたれとしてみるときは、その全体の外観より部分的な幹や枝のフォルムに意識を集中させる。全体としてどのようなフォルムになっているかはあまり関心が払われず、内部で旋回する幹の運動により大きな興味を抱いている。 それに対し坐部や坐部裏側に対する反応は、やはりまず全体の形への興味であり、あまりに早く意識化する対象の全体像を把握してしまったことへの興醒めであり、未知なるものが既知へと転落するつまらなさである。背もたれの幹、枝の幅を変えて幹と幹の間に生じる間隙を狭くすることは簡単だ。だが問題はやはり意識が集中する対象のありようであり、間隙がなくなって無表情になった背もたれには細部の幹、枝への興味は失われ、全体の表情を感ずる蚤だろう。要するにその2つの背もたれに流れる時間の継起は明らかに異質であると見なければならない。1から2への変容は、したがって、図2.38のように、先端部を円環させたものではありはしない。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 1が左右の対象形態が下から上に上昇する時間を措いているのなら(ただ、背もたれに対する特徴的な意識が細部への偏執にあるのなら、左右対象の形態が同時に進行するという時間が必ずしも正しいとは言えぬかもしれぬが)、それがいつの間にか一致して、時計回りか逆時計回りに回転する大きな円環運動へと変化していなければならないことになる。もっとも坐部への意識が全体フォルムに対するそれだったとしても、これも<註2>的でなければならないということにもなるまい。背もたれのように↑とか↓のように直線状に時間継起する場合もあり得るかもしれない、とするなら、背もたれが↑なので、坐部は↓として時間が流出する、とすべきか。また変容も1の終わりを完全に2の開始に一致させなければならないこともないのではないか。1が終わりつつあるところが2の終了位置でもある、というように、少しずらすやり方も考えられる。
背もたれ=A、坐部=B、足=cとすると第1レベルから第2レベルへの変容物語のバリエーシヨンは機械的にいろいろな要素間の変容を企図することによって次のように得られるかもしれない。

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下の、aが、最近考えていた1背もたれが2坐部へ転ずる物語であり、bが1背もたれが、そのまま時間が逆行する2の背もたれへと転ずる物語だとすると、結局、1から2へはA→AでもA→Bでもよいということになるから、2から帰ってくるのもC→Cだけではなく、C→A、C→Bなどもあり得るかもしれない。

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適当に列挙するだけで上に掲げたバリエーションが得られてしまう。最後の3つは、1Cから始まり、2のA、B、Cにそれぞれ移行するが、帰ってくるときは2のCではなくBやAから帰還が行なわれるとした方がよいだろう。 このようにシステマティックに記号と記号とを結んでいろいろな構造をつくったとき、今まで、想像もできなかった新しい物語が生まれるだろうか。Aが別のものへ転成する物語は、Aが背もたれであり、もともと希望を惹起する要素だけに見当をつけやすいが、Bから始まる構造の物語などはどうなるか。Bは坐部である。Aから始まりBへと達していたところのBは坐部の裏側であった。Bから始まる構造においては、そのBが希望でなければならないとするなら、B=坐部の裏側としなければならないのか。A→Aが希望的なAから絶望的なAへの転成であるなら、A、B、Cという3つの要素は、それぞれ希望的な側面と絶望的な側面との両面を持っているということになる。この違いは具体的にはモチーフをどのような順序で時開化するかによってあらわれる。これまで幾度となく、希望、絶望という言葉を使っているものの、これは結局主観的なイメージ判断にすぎない。 違いは、やはり時間の序列化の違いとしてあらわれなければならない。 忘れてはならないのは、少し前に考えていたように、単に時間的序列が異なるA→Aへの転成ではなく、第1レベルのAと第2レベルのAとでは、各レベルの中で、組織のされ方が異なっているという点である。つまり第1にてAは全体を指していたが第2のAは全体の部分でしかない、というふうに組織化が違っている。また、単に部分一全体だけではなく、(すベて部分一全体論によって解釈することもできる、と2ー15のところに書いているが)肯定される要素と対の関係にある否定される要素としての位置を占めるような存在Jという役をになう要素もあった。要するにAという要素を観察するとき、それが、他のB、Cとどのような関係性にあるか、が、問題である。そのAが「A-B-C」という全体のフォルムを持ち、文字どおり全体としか言いようがなく、残りの、BとCがAの部分としての存在を賦与されていない、という関係性にあると推測されたのが、これまで考えてきた第1レベルの世界であった。この関係は比較的わかりやすい。同じくA、CがBの部分であったりA、BがCの部分であったりする関係もあるだろうが、いずれも部分一全体論として、A、B、Cの関係性を論じている。

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では、この部分一全体論以外にA、B、C間を論ずる方法はあっただろうか、というのが当時の疑問であった。第2レベルとして登場する世界は、一見、A、Cを否定してBが成立する関係にあったが、これは単にA、Cを部分として持つBの全体ではなかったか、という反省もあった。したがって第1の「A、B、C」のAが第2の「A、B、C」のBに移行するとしても、第1のAが全体であるなら、第2の方では全体の中の部分でなければならない。このとき、第2のBが全体でなければならない、ということもないのではないか。すると第2の全体はCとなり移行する第2のBは全体の中の部分ということになってしまう。 それから、「A、B、C」のうち、どれかがその全体でありどれかが部分である、という関係性が決定されたとき、それをあらわすために完成図は奇型でならなければならなかった。Aの背もたれフォルムの部分としてB、Cが枝となって閉じフォルムの一部を形成する、という奇型は何度もくりかえし描いている。第1レベルのAであれ、B、Cであれ、そのどれかが第2のどれかへ変容するのだとしたら、最初のAか、B、Cは、全体でなければならないのかもしれない。 かつての1A→2Bへの変容は同じA同士の変容でありながら1Aは1の全体であり、2Aは2の部分である、という違いがあったから面白さがあったのだ。そうすると、1A→2Bは、AとBのモチーフの違いだけではなくAは1の全体でありBは2の部分であるとする違いも考えてしまうと、少し複雑になるのではないか。というより、Bが2の部分だとしても、1におけるBも1の部分であるため、逆に面白さが減じるのではないか。また、違う要素同士のメタモルフオーゼを果たしてやってよいのか、という疑問には絶えずつきまとわれている。一度も発表する以前から、こうした疑問一一あるいは規制のようなものを作業に課そうとするのは馬鹿化ているかもしれない。いや衆目に晒したところで、それをやっていけない、と自縛することには何の意味もないことかもしれぬ。現に異質のモチーフ間のメタモルフォーゼはCGの常套手段である。しかしたとえば、AからBのモチーフヘ変容を企画するとき、Aは完全にBそのものへと転ずることは不可能だろうという直感は動かすことができない。実際にはAを構成する諸要素とBを構成する諸要素のいくつかを互換して、ややB寄りのA(ややA寄りのB)といった中途半端なB、奇型としてのBをもって、変容されたAとする意外ないのだが、決して完全なBへと帰着することはあり得ない。たとえば、1-Aの背もたれが2-Bの坐部裏側へ変容するといっても、以前の背もたれの性質を残したまま坐部裏側へと到達するのである。転じた坐部裏側はむしろ、背もたれとも坐部裏側とも判別がつかないほどの奇型と化している。ここが重要なのである。だがな、的な処理だけでは決して全体像がわからないので、例の二重画像は全体像を少しでも認識することができるための計らいでもある。
今ふと,思ったのだが、1-A背もたれが2-B坐部裏側に達したときの奇型性一一どの要素を坐部裏側のものとして、どの要素を背もたれのそれとして残すか、には、必然性がなければならないし、その組み合わせで、も無限に近いパターンがあるだろう。仮にある必然性によって、奇型としての2-B坐部に達したとする(何となく坐部裏側というより背もたれ裏側と呼んでもいいような景観を想像している一一つまり全体のフォルムは背もたれそのままとして残すような)。そのとき、第2レベルとしての新しい背もたれが、奇型の坐部裏側を貫通していなければならないが、坐部裏側が奇型なので、それに応じた同じく奇型としての新たな背もたれでなければならないのではないか。その奇型性は、坐部裏側の特質に対して、これ以上他の奇型は考えられないと思われるだけの特質がなければならないのではないか一一つまり、第2坐部裏側の奇型にもいろいろあり、その中の2つをB'とB"とするなら、B'に接続する背もたれは、奇型であってもA'でなければならず、B"に接続する背もたれはきちんとA"でなければならないのではないか。CもC'やC"でなければならないのではないか。

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すると、仮に第2レベルから第3レベルへと移行するにしてももともとA、B、Cとも奇型となっている第2から始まるのだから第3もさらなる奇型でなければならない。というか、第2のA、B、Cのどれかからまた第3のA、B、Cのどれかへ変容するときに、再び、完全な第3のどれかへ達することができないのだから、ここでもまた奇型が生ずる。奇型のモチーフがさらなる奇型へと化すのである。すると第3全体世界もまた二重の奇型でなければならないーーというわけで、世界が変転するごとに奇型度が深化し、複雑化していく。あるいは、どこかで、奇型の奇型化が逆接的に正常さを生むのかもしれず、それが最初に戻るきっかけとなるのかもしれない。 ある種の複雑さを画面内に導入する必要性は以前から感じていた。フラクタル画像の面白さは、同じシステムを際限なく細部に適用することによって画像全体が複雑化していく。システム自体は不変であり、変貌するのは画像の方である。2、3度くりかえしをしただけでは意味がない。それは無限のくりかえしによって奇怪な相貌を次第にあらわにしていくものの、もちろん無限回のくりかえしは不可能であるから、途中で中断することになり、人は完成された絵を見ないままにそれを想像する以外ない。ここにもひとつの新しさがあるような気がする。つまり画面上に現出した絵は指示するのみであり、決して完成された作品そのものを意味しているのではない、ということ。途中で運動を停止して、残りを指示するだけ、というもどかしさは必要かもしれない。 前頁に書いたことを具体的に論ずるといかなる奇型が生ずるか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

第1Aの背もたれが第2Bの坐部裏側に転ずるとき、背もたれの全体を形成する独特のフォルムは残しながら、部分に偏執して旋回する意識の運動は切り捨てられ、のっペりと無表状な平坦さが特徴的な表情を獲得して坐部裏側になる、ということだった。ここは是非細かく分析しなければならないところだが、あえて単純化して、上図にまとめると、1-Aは円環せず、螺旋状のフォルムであり、それが2-Bの円環しなおかつ螺旋的フォルムのままのモチーフへと変化?するとなる。このとき、では2のAはどう処理したらよいか。そもそも、BはAに対して成立しているものであり、BとAの明確な相違は、言語化させておかなくてはならない。1のAに対するBはAから隔てられるところの明確な要因があるものの、これが暖昧になる状態で1-Aが2-Bに達しているので、むろん1におけるA-Bの相違と全く同じ相違を2に適用するわけにはいかない。上図に描いた2-Aは、単に「非円環でありしかも螺旋的ではない」ものとしてのAである。
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しかしこんな単純な処理でよかったのだろうか。これを複雑化と見ることができるのだろうか。
単に要素を組み変えただけで複雑化はしていないのではないか。たとえば1において、Bのフォルムに対してAは螺旋敵で優雅である。では2のBに対しでも同じ関係を持たせるのなら、2-Bに対して2-Aはもっと螺旋的で優雅でなければならない、ということになりはしないか。図3.2の□と○とを隔てる要素があるとき、□に対して何らかの要素によって○が成立している。では同じ理由によって○がしりぞけられたときに成立する新しい形態なるものは何か一一この設問の立て方は全く無意味だろうか。つまり謎の新しい形態にはただ□が置かれるだけなのか、という問題である。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
Aという人間とBという人間がいて、AをBはある理由によって嫌っているとする。そのとき、Bが同じ理由によってCによって嫌われる、ことがあるのか一一この比輸は適切であろうか。AにはBにない性質があり、それが理由でBがAを嫌っているとする。BがCに嫌われるとしても、Aにはあった性質をBは持っていないので、同じ理由によってはBは嫌われようがないのではないか、と考えるのが常識である。すなわち、Bが嫌われるとすれば、同じ理由なら、Aによってでしかない。しかしその性質も、ひとつ棚上げされた(?)新たな性質となったとき、Aも持ち得ることになるのではないか? ○に対する<註3>的な関係を<註3>に対しても応用してさらにぐにゃぐにゃの<註4>のようなフォルムをつくることができないわけではないが、これではあまりに意味がない。これも以前書いたことがあるはずだが1において、青と緑との関係が寒色素一暖色素であるとしたとき、2の緑を同じ理由によって否定する赤を想像することはできる。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
この関係性だけを見ると、1の「寒色一暖色」と2の「寒色ー暖色」は、言葉の上では同じながら1の狭い領域でのそれを大きく抱括するような形で2の概念が成立しているようであり、またなおかつ、1の「青一緑」と2の「緑一赤」とはもっと別の概念によって成立しているようでもあり、理想的であるように思われる。しかし、問題はこれ以上進まない点であり3レベルにあって、赤はどんな色によって寒色系として否定されるのだろう。赤にもいろいろあり、ピンク系の赤によって一般的な赤が否定される、ことはあるかもしれないが。これが3→4→5と続いて、また最初の青に戻る、という形がよいのかもしれない。もっとも色の例は、「青一緑」を包括した色を否定して赤が登場するようだったから、少し今扱っているテーマとは違ってくるかもしれない。

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前頁に書いた問題の結論は出ないので、当分3-5の冒頭に書いた図のように処理するしか仕方ないだろう。1において、B、CはAの部分であり、Aの成育途中に小さく登場し、枝としてのフォルムを形成して消失する、となっていた。2のBが全体でありA、Cが部分である構造をどう時開化すればよかったか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
以前考えていたのは、A、Cから時間が流れ、それが終了したときにBが登場し、Bの時間が始まっておわる、という時間化であったが、その根拠は脆弱である。A、CがBの部分だからといっても、1のようにBの時間の中にA、Cを取り入れるのは困難なのではないか。また広義にはA、CはBの部分であるという関係が成り立っかもしれないが、かつて考えていたのは、A、Cを否定してBが成立する一一反A、C的な存在としてBが存立するという関係の方が正しくその構造を説明しているようにも思われていた。第2レベルの世界とは、坐部裏側に背もたれ先端が貫通していたり、木枠が接触して、本来持っているはずの坐部の広がりを拒絶せんとしているもどかしさに特質を持つ。これが坐部表側だと人はもちろん坐ることができない。坐部の裏側だけで、寂しいのだが、それにさらに拍車をかけているのが、背もたれ先端や、足先端、それに木枠の存在である。要するに、内側から広がっていくはずの視線の動きを、それらによって邪魔され、遮断される。木枠が構成する四角形の垣根は、牢獄の塀を思わせないとともないが、それにしては中途半端である。一一つまりこのような固有の風景があるとしたとき、それをどのように時間解釈するかは、この2に限らず、あらゆるレベルに登場する複数の要素が組織された風景に対して行なわれるべき認識だろう。 それがいくつかの複数のモチーフに分類されるなら、どの順番で推移するかは、必ずまず決めなければならない問題ではなかったか。よくわからないが、ここは以前通りA、Cの終了後にBが始まるという時間意外他にないのではないか。またBはり的に坐部酬を円とみなした時間とする。
ところで、Bのフォルムは前頁に書いたように、1-Aのフォルムを残している奇型であり、2-Aもそれに対応した奇型であったが、2-Cはどうなるのか。2のA、Bが奇型であるとき、それに応じた2ーCの奇型性があり得るのか。 2-Bの奇型性は、Aとの関係において生じたものであり、このA-B闇の要素組み換えによる奇型化にはCの存在は介入する余地がないようにも思われる。

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しかしBとCにはあらかじめ固有の関係があると思われる。1においてはA-B+Cの関係性ばかりが主題化されていたので、BとC間をどのように説明したらよいかわからないが、何かの拍子にBが少し別のものに変化したら、過去のB-C関係をそのまま保とうとしたら、Cも変わらざるを得ないのではないか。図3.4のBとしての○が何らかの事情で<註5>となったら、Cとしての<註6>が<註7>と変化するように。

またしても原理的な問いかけになるが、椅子は一見、A、B、Cの三要素に分類されるように見える。しかしこの3つはそれほど明確な区別を持つものではない、ということを証明するために作業は行なわれる、と考えてもよいかもしれない。背もたれを坐部に変化させるのは、よほど慎重に行わなければならない。できることなら、背もたれを坐部に変容させる安直なメタモルフォーシスは避けたいという気がある。しかし、背もたれと坐部は当初こそ明確に区分されていると思われていたが、背もたれの裏側に回ってみると、絶望に陥るような外観を呈しており、ほとんど坐部裏側としか感じられないようなたたずまいである。ここに背もたれと坐部との境界が暖昧になっていく契機がある。 たとえば、これは足ではないが、もし坐部が図3.5のような曲線的なフォルムを描いた奇型に帰着したとしたら、それは接続する裏側の木枠を正常な形で登場させるのではなく、坐部の形に沿ったぐにやりとした形で描かなければならない、と考えるのはそれほど奇異で、はないのではないか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ただし、足の方はどうなるだろうか。 今のは、前頁冒頭に書いた図を踏襲した例である。しかし、その図では、CとBとの関係が、Cが1の直線状でありBがOの円環(曲線)状であるという差異として明確であり、この関係をBがいかなる形であろうと推持しようと考えれば、Bの○が<註6>となったとしても、Cの<註7>は<註8>となることは自然だろう。
つまりC-Bの間に「○-<註9>」的な関係、差異は察知されてはならず、そこは依然として「○-<註10>」でなければならないからである。ところが、精子を題材に取ると、第2レベルにおけるCとBの関係のうち、第一に据えられているのは、そうした形態上の差巽であろうか。いや形態には違いないがICが突き刺し、Bが突き刺されるJといった解釈によってようやく定義できるような関係であり、これだけならBがどんな形になろうと、Cのフォルムはそのままで推持される関係になってしまうのではないか。

ひとつには、第2レベルのC-B(A-B)関係の実態がはっきりしていないのも混迷の原因に挙げられよう。3-7に書いたように、第2レベルの世界の特徴はといえば、坐部に腰を下ろしてゆっくりと安息するという予測が裏切られた寂しさであり、荒家たる環境に精神を引き裂かれるもどかしさである。何をもって荒夢とするのか。ただ坐部の裏側だけではその感情を醸したりはしまい。坐部裏側は表側と違い、わずかな表面の起伏がなく、均一に平坦であるが、やはりそこに枠やら足などの爽雑物が介入してくるからであろう。第一、坐部の裏側には腰を下ろすことができない。とれはどういう関係なのだろうか。

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問題なのは、そのようにCとBが構成する特殊な関係性をいろいろな視点から分析し言語化するのはょいとしても、それを処理する段になって、大して変わった処理法を期待できるのでもない、という点だろう。í処理Jとは、結局、どのような時間がC-Bにおいて継起するかを定義することに他ならぬが、これのバリエーション自体がさして多くなく、どれだけ考えてもせいぜい数種類に落ち着いてしまう。
単にA、Cの時間経過を見届けてからBに移行するだけだったら、特別「刺す一刺されるJなどという言説を弄することもあるまい。A+CとBとを区別しているという差異しかそこにはないからである。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
もっとも、A、Cが終了してからBが始まるという時間系列に深い意義があるわけではなく、逆にBが終わってから、A、Cがはじまる、と考えた方のが、これも単にB-A+Cの区別だけを説明したにすぎないにせよ、あるいは「刺す一刺される」的関係を雄弁に語り得る、と考えられるかもしれない。もし、第2において、いささかの荒参さも感じず、出っぱった枠や足は坐部の装飾物程度の認識しかなかったとしたら、AとCはBの完全な部分となるだろう。おそらくそのときは、第1において行なったように、Bの旋回途中で、AやCが登場して消失するという程度の扱いしか、A、Cは受けないだろう。すべてはBの中に丸く収まってしまうのである。だがそうではなく、A、Cの存在によってBの広がり、希望、安逸その他の要素をことごとく否定されるのなら、むしろ最後にA、Cを持ってくる方が妥当なのではないか、という推測も成り立つ。 もう一度、先の「Bの奇型性をCはいかに伝授すべきか」の問いに戻ると、また別の角度から考察するなら、もともと、椅子はA、B、Cの3つの構成物によって成り立っておりそのうちのAとBとの差異が曖昧になりながら、なおかつ、一次元上昇、下降した地点でまだ差異を推持していると考えるとき、たとえば、図3.8のようになってもよいのではないか。BのムがA化するが最後までなりきれずに終わる。2におけるBに対するAはOとなっている。すると2のCはDになると考えたらおかしいだろうか。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

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2では、Oとムと口の差異がある部分においてなくなっているものの、それでも別の部分においては依然として差異を持続させているように思われる。果して第1→第2→第3の推移は、そのように一見徐々に三要素の逕庭が消滅していくプロセスでよかったのだろうか。もう少し第2以降の各要素間の逕庭を際立たせるようなありようがあり得るのではないか一一つまり第2の明らかな要素間の相違は第1にはあまり認識できなかったが第2にあっては非常に露出している、というような。

第2レベルの粛条たる情況は、やはりBとA、Cとの位置関係によって決定されていると言えるだろう。しかし、フォルムの違いもそれに大きく関与しているのも確かなのではないか。単純化すると、平坦で広がっていく坐部の形態に対して直立する足のフォルムという違いは前者を疎外する後者の佐賀の大きな要因であるとも思われる。坐部のアウトラインがぐにゃぐにゃになったとき、足は何の変化も見せなくてもよいのか。一一ここは保留にしておかねばしょうがないかもしれない。 ところで、これまで、第1から第2へ移行するときに例の二重画像手法を用いていたが、これを図3.9のようにしたらどうか。つまり、簡潔に1と2は左右にならべてしまう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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1の下から上に向かつて時間が流れるのなら1の最後は上端で終了するが、同じ場所の下から第1を反復するものの、それが第2へと推移する。図の点線部分によってモチーフの固有性は保持できるだろう。問題は、これだけでは2の方の固有性がなくなってしまうので、さらなる処理を加えなければならない。1が<註20>であり、2が<註21>であるとして、1から2に向かったところのモチーフが2の<註22>へ推移すると、図3.10のようになってこれは真ん中をはさんでシンメトリーの構図になってしまう。もっとも1と2とでは、全く情況や視点の位置などが変化しているので、決してシンメトリー的にはならないとは思うが。いささか左から右にだらだら延長していくだけの感じがあり、それが気にならないでもない。第1、2、3と連続させたら相当横に長い画面を要するととになるだろう。また、あまり横にのばすと、円環がやりにくくなる。第2の足は第1の足に結びつくはずであったが、これでは足がかなり延びるのではないか。
また、これは新しいアイデアだが、いっそのこと、二重画像をやめてしまう方法もある(図3.11)。背もたれが下から延長するのなら、先端(上端)からさらに連続して、また背もたれが天に帰っていく、という構造である。このように二重に画像を重ねて、そこに原形を想像させるより、完全に先端同士をつないでしまった方のがわかりやすいだろう。わかりやすい、とは、人が画面を見て抱く奇異なる衝撃一体これは何なのか、どこからどこまでが背もたれで、どこからが坐部裏側になるのかを仔細に分析しでも判然としないもどかしさ、不安の感情をより直裁的に喚起しやすい、ということである。1本の線だけだと、二重になるべき2つの接続部分はなだらかに連続する必要があるから図3.11のようになるだろうか。
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ここで注意することは左の螺旋状のフォルムを題材にとればわかるように、2つの世界は左右対称であり、反転した画像を新しく用意しなくてはならないだろうという点である。図3.12の場合は最後の先端部が→で終わっているので、右に対称図形を用意しているが、↑で終了する絵に対しては上下対象の図形を持ってこなければならない。←で終わる場合は左に対称図形を持ってくるのか、などと問題は多い。
以前から抱えている問題だが、異質の物体闇のメタモルフォーゼを行うことは決定的な誤謬を犯すことである、という実感をなかなか払拭できない。背もたれから坐部へのそれは、むろん異モチーフ間のメタモルフォーゼである。以前考えていた背もたれ→逆背もたれの発想、もその牽制から得ているのである。あまり大した違いではないかもしれないが、第1の背もたれが、視線が裏側に回ることにより裏面を見せ始めたとき、必然的に坐部裏側へ到達する理由をそこに得られるのではないか。つまり背もたれ表側だけを見ている限り完全に希望を灰めかす要素しかなく、坐部裏側などの景観とは一線を劃っているが、背もたれ裏側は、ほとんど坐部裏側の表情と変わらず、要するに背もたれ裏と坐部裏とは連続している、というより同ーの新しいモチーフなのである。一一このように考えれば、背もたれから坐部裏に移行する契機、を得られないのではないか。いや、このことについては3-8に述べている。であれば、処理もこの発想に基いてやるべきではなかろうか。具体的には、「背もたれ表→坐部裏」ではなく、「背もたれ表→背もたれ裏+坐部裏」というメタモルフォーゼを敢行する。もちろん第1の背もたれ表と第2の背もたれ裏とは時間の継起が全く違っているので、たとえ同じ背もたれ同士であっても、内部時間の異なるモチーフ闇の処理となるのは仕方ない。ーーしかし図3.13のように、「新しいモチーフ」としか名付けられないような椅子に対する認識は以後、ずっと必要であろう。そして図のというようなある側面においては重複しているという繕造、ある領域を共通性にして、全く別々の方向に黍離していく構造はきわめて重要に違いない。「詩」や「夢」がいささかも非合理的で、なく、必ずある理由によって別次元の界域を呼ぶ事情と通底するだろう。

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これは第1から第2までの物語であったが、それから先はどうだったか。視線が坐部裏側に達して絶望する。坐部裏側には枠や足などが接続しており、これらは坐部裏側に必要条件である。つまり坐部裏側という呼称で定義してはいるものの、実際は裏にくつついている足や枠や背もたれ先端などの存在がなければ、考えているような粛条たる情景は実現しないのである。したがってこれ,も前頁に書いた新しい概念でなければ定義できない対象なのに違いない。坐部が持つはずの広がりを枠や足で疎外することによってあの情景が成立することについてはこれまで綾鰻述懐してきた通りである。まだ足の独立性はこの第2では発揮していない。第3の主題が足である。足は、椅子本体と床とを連繋する中途半端な存在だ。足がなければ椅子は成立しないにもかかわらず、常に蔭に追いやられて日の目を見ない存在である。つまり第3にて主張する足とは接触する床がなければ成立しないものとしての存在である。足そのものに光は当てられず、むしろどこに消失するとも釈然としない床の方に光が入射している。足は椅子本体と床とを連繋する蝶番(ちょうつがい)としての任を演ずるのか、あるいは足の間からもっと別の地平を獲得しようとする意志のための窓のような任を果たすのか、一一いずれにせよ、ここには床の存在を欠くととはできない。 最後の第4レベルは何だったか。ここは、第3とは逆に下から上に意識が上昇し、もう一度椅子そのものが持っていた栄光を獲得しようとするところがあった。どこかに消失する床ではなく、先端に壁、天井、天窓を持つ床である。いずれにせよ、ここにおいても床は床だけで存立しているのではなく、他の部屋の構成物と不可分の関係にある。ここで一気に天窓の唐草模様が背もたれのフォルムと通底する最後の円環に達する。 ととろでそのように考えると第1から4まですべてのモチーフを言わば奇型的に解釈している。単独でその存在を認識することはない。1の背もたれにしても、坐部、足を部分として携える背もたれであり、これも坐部、足の存在なくして存立できないだろう。 背もたれ1から背もたれ(裏)2+坐部裏2に変化するときに、少し問題になることがある。背もたれは、左右対称の唐草模様によってできている。左右の2つのフォルムを別々に処理することはあまり意味がないので、同時に時間進行させることを考えていたが、これが、一見ひとつの存在でしかない坐部裏へ転ずるときに、背もたれの左右の2つが一致して(ひとつの存在になって)移行させればよいのか、それとも、必然的に背もたれの左右対称性を受け継いで、坐部も2つになってしまうのかという問題だ。

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これは、第2の坐部は、1の背もたれの一部の性質を受け継いで奇型になるのだから、坐部が2つになってシンメトリーの構図を形造っているという奇型に化しでも必ずしも間違ってはいないだろう。つまり、背もたれのgという全体のフォルムだけは維持して、第2に継続する、という発想、による奇型と全く同じ意味による奇型だろう。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
しかしこのような奇型を生むと、第2の坐部に接続する足や、木枠や背もたれも同じく二重にしなければならないので、その奇型性は当然の如く、他の要素に波及することになる。あるモチーフが別のモチーフヘ変容するときに、奇型のままで終わる一正常な形で最後まで到達することがないのは、2つのモチーフを隔てる種々の要素の一部が互換されない結果であることはこれまで、述ベてきた通りだが、もちろん、この要素を入れ換えて、どれを残存させるかによって多くのパターンを生むだろう。このとき、この組み換えこそが決定的であり、他は遊びにすぎないという価値感を導入すべきだろうか。莫然と背もたれ1の全体のフォルム(これも厳密に考察すれば暖昧な定義である)を推持し、坐部2(あるいは背もたれ裳+坐部裏2)にも継続させる、としているけれど、他の要素を逆に残存させてはいけない理由がどこにあるのか。あるいはこれ以外の組織はあり得ないとする基準が、椅子の物語の内容を決定づけていないともいえない。 実際に変容を企図するといろいろと面倒なことが起こるだろう。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 図3.15の1が背もたれ表であり、2が背もたれ裏+坐部裏だとすると、1の時間が2の時間へと接近するとき、1を半分に区分してはじめを2の背もたれ、あとを2の坐部へと振り分けることになるのだろうか。2は裏側なのだから、当然視点が表側から裏の方に回るという変化を見せる。2は「背もたれ裏+坐部裏」としか名づけようがない新しい概念のもとになり立つモチーフである。

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坐部に例のγ的旋回の時間を見るならば、2背もたれ裏を単に上から下へ直進する時間によって捉えるだけでは足りない。もし2で、背もたれ裏の時間終了の後に坐部裏の時間が開始するのだとしたら、坐部を旋回させるのは意味がないように思われる。だったら背もたれ上端から直進して坐部内部にも直進する時間をあて、先端部で全時間が終了する、とした方のが適格かもしれない。また1の背もたれフォルムの残浮が2の坐部を奇型化させるといっても、2が「背もたれ裏+坐部裏」なら、すでに2の正常のありようとして背もたれフォルムが定義されているので、これも変かもしれない。何度か描いてきているように、第1の、坐部、足が枝化する一部分と全体はすでにして奇型である。 図3.16 この奇型にはむろん必然性がある。しかしよく考えれば、坐部、足が背もたれの一部に変容しながら、なりきれなかった奇型でもある。すると第2の奇型も同じように考えたらどうか。つまり前頁最後に書いたようにあまり根拠がなさそうな第1からの残響というより第1においては確かな理由を持っているところの奇型性をあらかじめ想像してしまうのである。第1のそれは、坐部、足 が物理的な背もたれの部分となっているからやや特殊な状態だが。 第2の特質をもっとも強力に表徴し得るような奇型とはどんないでたちであろうか。現実に椅子を引っくり返して坐部裏側を見ると、想像していたような寂しさは感じない。むしろ接続する木枠や足の隆起がエキゾチックなたたずまいを呈している。少々穿った言い方をすると、第2のもどかしさ、痛痒感は、坐部裏そのものの無表情な広がりと、有機的なフォルムを持つ枠や足とのアンバランス性にあるのではないか。つまり、枠や足に背もたれにあった特徴を残存させており、奇型性はここに存在すると考えられなくもない。しかし奇型とは積極的にモチーフを変形させて発生するものだから、さらにどのような変形、を加えて例の疎外感を表現し得るかを考えなければ意味がない。そうすると、少し前まで描いてきた背もたれフォルムを坐部のそれに応用することはあまり意義がないようにも思われる。 とはいうものの、奇型の存在意義を第1、第2の各レベルに特有な世界の強調、支援と考えるのもおかしいかもしれぬ。第1の華麗さ、希望にあふれた至福は、背もたれだけで充分表現できるものであり、ここにあえて異様な解釈をされた坐部や足が登場するのは、むしろその至福、楽天的な世界観を懐疑する任を演ずるからであり、一見曇りがなく整備された地平を揺り動かして転倒するような不気味さを携えていなければならない。つまり、はじめの第一歩からすでに不安と危機を苧んでいる。したがって第2は逆に絶望が特徴である地平の中の希望の光として奇型を位置づけた方が良いだろう。一ーということは、坐部全体のフォルムに背もたれのそれを引きずってきても必ずしも間違いではあるまい。 第2が背もたれ裏+坐部裏という新しい概念で把捉できるモチーフである、としてみても実際にそこにどんな時間進行があるのかには直ちに結びつかない。大体物理的には背もたれと坐部とは別々のモチーフである一ーだが、こういうふうに本当は別々である、などと決めてしまうことが、そもそも常識的な通念に呪縛されているのを意味しているのか?